ダイナマイト が 150 屯。 小林旭「ダイナマイトが150屯」の歌詞の意味

ダイナマイト150屯 PROFILE

ダイナマイト が 150 屯

ダイナマイト150屯 DISCOGRAPHY 第2期メンバー編成になってから初めてのスタジオレコーディング作品。 2002年、ミュージック昭和スタジオで4トラック録音された。 ダイナマイト150屯の生々しいサウンドを聴くことが出来る。 全曲、ライヴでの定番ナンバーで、ヴォーカル以外は一発録りである。 初回限定でカラージャケット(青・黄)ヴァージョンもあった。 ダイナマイト・ビッグ・キス 原曲はイヰノがオリジナル・ラヴをイメージして作曲し、ジャジーな趣が強かった。 しかし、タキグチが加入してロック的なベースラインを入れてからは、俄然ガレージロックテイストがただようようになり、 初期とは性格が変わってきた感がある。 ちなみに、ギターをダビングする予定だったが、イヰノの意向により入っていない。 仙台でのライヴ(電撃フラッシュVol. 3 では、ジャズ畑の人(オオツキシュンジ氏 from トラッヂ)にラッパを吹いてもらった。 胸いっぱいの愛 暴力的なリフと、イヰノの少年性あふれう詩とメロディが不思議なバランスを保つビート・シャッフルナンバー。 一般的な人気はあるのだが、カンノは気に入っていない。 藪の中 昭和天皇の死にイヰノがインスパイアされて作った、ガバメント・ジャングルビートナンバー。 リフでガンガン押しまくるため、政治的な湿った臭いを薄めている。 ダイナマイト150屯の中ではもっとも古いナンバー。 他の曲もそうだが、ハネるビートを叩くとカンノのグルーヴ感が最も強く表現される気がする。 ブルーアロハ イヰノがあるアイドル歌手のヒット曲からリフをいただいた、サーフ・ガレージ・インストゥルメンタル。 結果的に違うリフになった。 イヰノの愛娘や、初めてダイナマイト150屯を見る人には一番ウケがよい。 後半の、次々とキーが高くなっているところに、イヰノの独特なセンスが垣間見える。 草臥れて イヰノがギョガンレンズのライヴで偶然タキグチと知り合い、その夜に15分で作り上げた。 前半は昭和フォークのようだが、後半のスクリーム声(というか怒声)のフレーズに入ると、ジャンル分け不能だ。 タキグチのディストーション・ベースと、カンノの「ニルヴァーナを意識して叩く」ドラムも加わり、 当初イヰノが意識していた「バラード・ナンバー」の原型はあまりない。 最後にイヰノの、ミスチル「名もなき詩」を思わせるリズムギターが素晴らしい。 地平線と少年 イヰノの淡い恋心と、センスのある循環コード進行が光る名曲。 この曲を聴いてダイナマイト150屯のファンになる人も多い。 歌詞とメロディラインが、イヰノが隠れた矢沢永吉チルドレンであることを思わせる。 クレイジーケンバンドのフリークであることも当然? 07. ゲット・ファンキー この時点(2002年)で一番最新のナンバー。 ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンへの日本からの回答。 初期の曲(地平線と少年、藪の中…)に較べ、コード数が少なくなってきており、イヰノの作曲パターンが変化してきたことをうかがわせる。 ややファンクの色も入っており、もはや単なるガレージ・パンクバンドでもないことがわかる。 レッツ・ゴー コンサートで最近はオープニングを飾ることも多い、8ビートのストレートなガレージパンク。 初期ヴァージョンよりも短縮され、そのまま「ダイナマイト150マン」になだれこむ。 ダイナマイト150マン イヰノがバンドを結成するにあたってテーマ曲が必要だと思い、得意のジャングルビートを導入して作った。 「レッツ・ゴー」とのメドレーでライヴのオープニングを飾る。 サビでのタキグチのコーラス(怒声)も加わると、ほとんどの客はクギづけになる、 「ウィー、ダイナマイー、150マーン!」 (text by TAKIGUCHI.

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小林旭の「ダイナマイトが百五十屯」~詞・曲・歌唱が奇跡的に融合され爆発している”土着ロック”の最高傑作|TAP the SONG|TAP the POP

ダイナマイト が 150 屯

ダイナマイト150屯 PROFILE 1998年8月 30前にして何かを焦ったイーノテツオ(g)が、大学時代の友人イキフミヒコ(b)にバンド結成を持ちかける。 イキのパートは、彼が大学時代にイーノの彼女のベースを借り逃げしていたことにより決定。 ドラムがいないことに気づき、イーノの高校時代のバンドメンバー、カンノトモユキ(dr)にほぼ3年振りに連絡をとり、ドラムを叩いてもらうことに。 イーノは結成後、ギターを購入。 そのギターがアンプ内臓のミニギターであったことや、カンノがドラムを売り払ってすでに10年経っていたことなどから、彼らのバンドに賭ける心意気が伺える。 さっそくどこかで聞いたようなオリジナルを5曲作成し、練習に励む。 当然、この有り様ではライヴの話もなく、ひたすらスタジオ三昧の日々。 1998年12月 既存曲のラジカセによる一発レコーディング。 1999年5月 ノストラダムスの七の月を控え、イーノの 心身磨耗により活動停止。 1999年9月 神の復活の啓示により活動再開。 しかし、なぜかDrはハネてた。 GはFAZZ全開。 Bは独自スケール。 さっそくデモテープをグランド・ロイヤル、ナゴムレコード、そしてなぜかGREAT3のプレゼントに送付。 また、英国ロンドンのタワーレコード、HMV、マーク、シェリーズなどに勝手に置いてくる。 当然どこからも連絡なし。 安心価格にてお分けします。 (イヰノ) 2000年6月 ひたすらスタジオ三昧の日々が続くなか、弁天レーベルよりW3名義のガールズバンドのリリースがあることを知る。 2000年秋 ひたすらスタジオ三昧続く。 カンノが「ライヴやりてェ〜」ともらすほど、メンバー全員ストレス溜まる。 2001年1月 満を持して、仙台PIPELINEでデビューライヴ。 恐いモノ見たさに、ロックとは無縁の客多数集まる。 今思うとギコチないし、大人しいし・・・。 ただ、今よりイーノはよく喋ってた。 メンバー紹介もあった。 イキの旧友・石垣氏に「タグチトモロヲに似てる!? 」とそそのかされたイーノ、「イーノテツヲ」に改名。 カンノの旧友・武田氏は「CDがあったら試聴はするが、買いはしないバンド」と評す(ウ〜ン、辛口)。 告知ジャンルに「ガレージ」の文字を見つけ、同好の志を期待するも、それは自分達のことであった。 イーノ、MCで「初めまして山形!」などと、イタいけな中高生を騙し打ち。 ライヴ終了後、親しげに近づき、話しかけてくる青年あり。 その名を山田クン。 彼もガレージバンドをやっているとのことで、「自分たちだけじゃない」と山田クンのバンドに期待が膨らむ。 山形でのキング・ブラザーズのライヴ終了後、前出山田クンの紹介で、タキグチシロオと知り合う。 タキグチが山田クンのバンドのGで、ガレージから永ちゃんに至るまで造詣が深いことを知り、親交を深める。 2001年初夏〜秋 山形で約2ヶ月おきにライヴを敢行。 見せ場は「平和コンサート」でのイキ暴走。 手のつけられないことに・・・。 回を重ねるごとに暴走に拍車がかかり、どの会場でも失笑を買う。 一部ではBがまともに弾かないバンドとして話題沸騰。 この頃からバンド内部に暗雲が漂いはじめる。 2001年12月 仙台PIPELINE「ロッケンローナイト」(?)出演。 周囲はビートルズのコピーバンド、ロッカバンドばかりで完全に浮く。 自分たちの出番終了後もイキ、他のバンドに奇声ともとれるエールを送り、謎のダンスを繰り広げ、周囲の顰蹙を買う。 山形へ帰る道中、イーノとカンノ、ある決心を固める。 2002年2月 既存曲をレコーディング。 音は取り返しのつかないほどガレージに。 終了後、ガストにてイキに脱退を促す。 結論が出ず、話し合いは3時間に及ぶ。 最後はカンノがイキに引導を渡す。 その修羅場をイーノは「まるで長年付き合った彼女と別れ話をしているようだった。 イキに引導を渡した時、カンノがブライアンに首を告げた時のチャーリー・ワッツに見えた」と評す。 イキフミヒコ脱退、同時にマイツ親衛隊(M. S 隊員番号001に就任。 興味のある方はご一報を。 (イヰノ) 2002年2〜3月 新Bを求めて、スタジオ等にメン募貼り紙。 ロッキンオン、ロッキンオンJAPANにメン募告知。 タキグチよりTELが入る。 タキグチがGであることから、ベースレスを試そうと3人でスタジオに。 タキグチ、セッション終了後「このバンドにはBがあったほうがイイ」と、即ベース購入を決断。 2002年4月 イーノ入院。 退院後、スタジオに入り音固め。 タキグチシロオ、Bとして正式加入。 タキグチ曰く「ヘルプのつもりだったが、一回入ったら抜けられない」。 イーノ(vo,g 、カンノ dr 、タキグチ b,cho の3人体制確立。 2002年8月 山形フランクロイドライトでのカッパマロのイベントでシークレットライヴ。 ちょっぴり右翼に間違われる。 ダイナマイトの演奏時は会場を凍りつかせ、誰一人身動きできない状態。 イイのやら悪いのやら。 フランクロイドでのライヴ翌日、マイクの修理に仙台新星堂を訪れたイヰノは、「電撃フラッシュ」の告知を見つけ、チラシ記載のメアドに一方的にメールを送りつける。 とくにGUNSHAKESは、カンノがこの手のバンドで初めて「是非対バンしたい!」ともらすほど絶賛。 2002年9月 新体制で既存曲レコーディング開始。 見紛うことなき爆裂ガレージ変化球へ。 仙台ガレージ第三世代のイベントに客として出没。 2003年2月 BO・カジワラ氏等の尽力により、仙台ランフェール「電撃フラッシュVol. 3」に出演。 ・・・きっとこれがハードコア・ジャズです。 これが何かのきっかけになれば・・・。

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ダイナマイト150屯 DISCOGRAPHY

ダイナマイト が 150 屯

1958年に「ダイナマイトが百五十屯」が発表されたとき、それが日本語のロック第1号楽曲として21世紀にまで受け継がれることなど、当事者の誰もが想像だにしなかっただろう。 この楽曲と歌が持つ破壊力について、小林旭の研究家でもあった故・大瀧詠一は料理にたとえて解説をしている。 アキラの曲をよく聴くと「監獄ロック」と「16トン」などをブツ切りにして熱湯のナベにぶち込んで、16トンというケチな量ではなく、100屯の大根や山芋を一緒に煮込んで50屯の味噌で味付けをしたような、とにかく豪快さと爽快さを感じる。 この楽曲が作られたきっかけは若手の映画スター候補生のなかで頭角を現してきた小林旭が歌った鼻歌を、日本コロムビアの文芸部長だった目黒健太郎が日活撮影所で耳にしたことだった。 小林旭が著書「熱き心に」(双葉社)のなかで、その出会いについて語っている。 「キミは面白い声を出す人だねえ。 どう、昼休みに一緒に食事をしながら、少しキミの話を聞かせてくれないか?」 突然の申し出だったんだ。 でも、当時の俺はまだそれほどの給料を貰っていなかったから昼メシの提案が有難かったわけよ。 「じゃあ、お言葉に甘えてご馳走になりますよ」 それで昼メシを食いながら話しているうちに、妙な展開になってきてね。 「キミ、レコードを吹き込みませんか?」 美空ひばりを筆頭に日本を代表する人気歌手のおよそ半数を有していた最大手のレコード会社で、目黒は現場のディレクターをたばねている制作者のトップだった。 小林旭が日本コロムビアを訪ねると、栃木訛りの若い作曲家・船村徹がレッスンのために待っていた。 船村は東洋音楽学校のピアノ科を卒業後に作曲の道を目指してキングレコードに出入りするようになり、春日八郎が歌った「別れの一本杉」が1955年に大ヒットした。 しかしトラブルが起こったことから、コロムビアに移籍したのは翌1956年のことである。 だが、そうそうたる先輩作曲家が揃っているなかでは、まだまだ駆け出しの若手だった。 それから1年数ヶ月の試行錯誤の期間を経て、1958年9月に小林旭のデビュー曲「女を忘れろ」が発売になる。 そして印象的なハイトーン・ヴォイスが好評だったので、第2弾として作られたのが「ダイナマイトが百五十屯」であった。 当時の音楽シーンはロカビリー・ブームの真只中にあり、ロカビリー三人男の平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎の人気が爆発していた。 だが彼らが歌っていたのはエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」、ポール・アンカの「ダイアナ」、ジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ルーラ」など、いずれもアメリカのヒット曲のカヴァーだった。 しかし「ダイナマイトが百五十屯」は作曲が船村徹、作詞が関沢新一のオリジナルだ。 大瀧詠一はそこを高く評価していた。 しかし、当時は作者も歌手も制作側も、それほどのものとまでは気がついてはいなかった。 それが同時期に世の中で吹き荒れていたロカビリー・ブームと底辺ではつながっていることに誰も気がつかなかった。 発表から20年以上が過ぎてほとんど忘れられていた「ダイナマイトが百五十屯」を、1981年にあらためてビートの効いたロックンロールにアレンジし、新たな生命を吹き込んだのは甲斐バンドだった。 「ダイナマイトが150屯」甲斐バンド 彼らの『破れたハートを売り物に』は8作目のオリジナル・アルバムだが、「ダイナマイトが150屯」はその3曲目に収められていた。 そこでは歌詞の一部が著作者の承諾を得て、甲斐よしひろによって改変されていた。 その破壊力にはファンもすぐに気づいて、たちまちライブにおける人気ナンバーになった。 それから10年後、こんどはTHE BLUE HEARTSの真島昌利がソロ・アルバム『HAPPY SONGS』でカヴァーした。 歌詞は甲斐バンドのものを踏襲している。 こうして小林旭の原曲を知らない世代にまで「ダイナマイトが百五十屯」は伝わっていった。 そしてオリジナル・シンガーの小林旭は現役で、今なお「ダイナマイトが百五十屯」を歌っている。 「ダイナマイトが150屯」真島昌利.

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