友川 かずき。 友川カズキ

サーカス(友川かずき) / コード譜 / ギター

友川 かずき

友川かずき 美貌の魂!魂は時に絶叫する!友川かずき 95 撮影・鈴木真貴氏 「友川かずきのうたが胸にしみいるとしたら、君は幸せだと思え。 涙があふれたら、君は選ばれた人間だと思え。 君にもまだ無償の愛に感応する心が残っていたのだ。 無償の愛がまだ人の世に存在すること、それこそが友川が身をもってあがない、あかしてくれたことなのだ。 友川よ、久しく会わないが、元気か。 美貌にかげりはないか。 酒量は落ちないか。 私は君がよき友人たちに恵まれていることを知っている。 その数は世の中の人の数よりは少ないが、一人の男が持つ水準をこえることはるかであることを知っている。 」(大島渚) 「東北の詩人たちは限りなく世の中に拗ねてみせるが、また時にかぎりなく甘えてみせる。 友川にはその両方がない。 友川はテレ笑いをするということがない。 そのことが世の中をとまどわせる。 友川のあの大きな目でみつめられ問いかけられたとき人びとがとまどうように世の中はとまどう。 そうだ、あれは目というべきものではない。 目玉なのである。 誰しもがとまどう。 ルドンの目玉にとまどうように。 」(大島渚) ~大島渚監督は友川かずきに映画『戦場のメリークリスマス』への出演を依頼したのですが、あまりにもひどい訛りでボツになったということです。 結局その役はご存知のように坂本龍一が努めました。 普段の友川かずき氏は、端正な顔立ちで寺山修司以来の東北訛りが色濃く残りトツトツとしゃべる物静かな人物であるが、ひとたび歌いはじめると、人格がまるごと変わってしまう。 酒を飲んでいるためだ。 酒を飲まなければ人前で歌えない。 友川氏のライブでは、たちまちにしてウィスキー一本が空いてしまう。 泥臭さい秋田訛りまるだしでギターをかき鳴らしうたう絶叫はまさに咆哮に近い。 それは、すごい迫力で、歌うというよりポエトリー・シャウティングする、「吠える詩人」とでもいうべきもの。 やがて歌声はヴィブラードしてゆき、その唱法には彼の情念が渦巻き強烈かつ独特で、その与えるインパクトは他に類がない。 絶叫なのに表情は少しも変わらず淡々としていて、友川の美貌には遜色がない。 友川の叙情的かつ激情的な唱法は音楽的指向はあまり感じさせないが、圧倒的な<声>の存在感、カ強く鋭角的なギターのカッティング、そして文学性の高い歌詩は、誰にも真似ようのない世界であった。 ニューミュージック全盛の時代にはあまりにも衝撃的だった。 彼の音楽は正に友川以外の何ものでもない、正にワン&オンリーの世界だ。 中原中也『骨』 ホラホラ、これが僕の骨だ、 生きてゐた時の苦労にみちた あのけがらはしい肉を破つて、 しらじらと雨に洗はれ、 ヌックと出た、骨の尖。 それは光沢もない、 ただいたづらにしらじらと、 雨を吸収する、 風に吹かれる、 幾分空を反映する。 生きてゐた時に、 これが食堂の雑踏の中に、 坐つてゐたこともある、 みつばのおしたしを食つたこともある、 と思へばなんとも可笑《をか》しい。 詩集『在りし日の歌』より 本名及位典司(のぞきてんじ)。 昭和25年(1950年)2月16日、秋田県山本郡八竜村(現在は八竜町)に農業及位清の次男として生まれる。 目立ちたがりやの少年で、仲間の注目を集めるために、毛虫を呑んだり自分の小便を舐めたりしたという。 中学校時代は歌手・舟木一夫にあこがれる野球少年。 勉強嫌いで文学にも無縁だったが、ある日、図書館で中原中也詩集の「骨」を目にして衝撃を受け、自分でも詩作を始める。 どことなく太宰の面影を感じさせる彼は文学的指向が強く、中原中也の詩に曲をつけたアルバムも発表している。 能代工業高 校建築科に進学。 教科書は開かず、文学書の乱読とバスケットの練習に明け暮れた。 太宰治と小林秀雄に激しくひかれた。 彼の詩は時に文学的で、時に自虐的だ。 中原中也『サーカス』 幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました 幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました 幾時代かがありまして 今夜此処でのひと盛り 今夜此処でのひと盛り サーカス小屋は高い梁 そこに一つのブランコだ 見えるともないブランコだ 頭倒 さか さに手を垂れて 汚れた木綿の屋根のもと ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん それの近くの白い灯が 安値 やす いリボンと息を吐き 観客様はみな鰯 咽喉 のんど が鳴ります牡蠣殻 かきがら と ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん 屋外 やがい は真ッ暗 暗 くら の暗 くら 夜は劫々 こうこう と更けまする 落下傘奴 らっかがさめ のノスタルジアと ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん 『俺の裡で鳴り止まない詩-中原中也作品集』(1978年) 作詩:中原中也 作曲:友川かずき 編曲:J. 高校卒業後、日本橋の婦人服卸問屋に就職したが、六ヶ月で退社。 秋田訛りがひどく気になり、トイレに隠れて「いらしゃいませ」「ありがとうございました」を練習した。 自意識過剰の男が接客に向くはずもなかった。 その後、友川かずきと名前を偽って練馬の飯場にもぐり込む。 及位という本名を笑われるつらさからだ。 現在の芸名、ペンネームは、この時初めて使われた。 以後、新聞配達、労務者、旋盤工、喫茶店のボーイ、クラブ歌手と、転々とする。 上京後、職を転々とするかたわら、URCレコードでのアルバイトを通し、あがた森魚と知り合い、中津川フォーク・ジャンボリーに参加。 その後、故郷に一度帰るも再び上京、そこで恩人・宇崎竜童と出会う。 彼の尽力によりシングル「上京の状況」や「生きてるって言ってみろ/人生劇場裏通り」をリリース、これを機に頭脳警察や寺山修二とも親交を深めた。 二十歳のころ、行きつけの赤提灯で岡林信康の歌を聴いた。 「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」「手紙」..... 何かがグサリと胸に突き刺さって涙が出て止まらなかった。 友人からギターを譲り受け、それまで作詞した詩作に曲をつけ、歌うようになった。 1974年3月「上京の状況」でデビュー。 続いて「生きているって言ってみろ」を出すが、ニューミュージック全盛の時代、全く、といっていいほど売れなかった。 DVD『ピストル-渋谷アピア・ライヴ 2003』 1. ピストル 2. サーカス 3. 桑名の驛 4. あやかしの月 5. エリセの目 6. 似合った青春 7. 訳のわからん気持 8. メダカざんまい 9. この世を踊れ 10. ジャン・ジュネに訊け 11. シシャモ 12. サトル 13. 夏の日の歌 14. 死にぞこないの唄 15. ワルツ 16. また来ん春 17. デラシネ(新曲) (ボーナストラック) 18. シーザー > JA(ジュリアス・アーネスト)・シーザー(本名:寺原孝明) 1948年宮崎県に生まれ。 シーザーの音楽は、独学ながら当時のサイケデリックやプログレの要素含んだ中で、複雑なリズムや転調の多用、和楽器を取り入れてエスニックな要素までも引き出し、すでに独自の音楽を完成、寺山修司の世界を音楽面で構築した。 - 篠原勝之 紅テント ポスター - 篠原勝之(しのはらかつゆき)は、北海道胆振管内室蘭市出身の芸術家。 溶接オブジェを得意としていて、自称「鉄のゲージツ家」と名乗る。 愛称は「クマさん」。 タレントとしても活動。 <画:友川かずき> また、趣味で描いていた絵が美術評論家に認められ、1985年の個展を皮切りに、全国各地で精力的に個展を開き、中上健次・立松和平・石和鷹・藤沢周ら多くの芸術家たちから惜しみない賛辞を浴びた。 「友川かずきの絵画は見者の特権である愉楽と悲惨のなかに見る者を突き落とす。 フリージャズの吉沢元治や頭脳警察の石塚俊明を向こうに回してのインプロ・バトルを繰り広げつつ歌い叫ぶ肉弾戦。 流行を超えた、アシッドフォークな70分が収められている。 したがってバックは、日本のアシッド・ミュージシャンであるジャズメンが務めるよりない。 ・「サーカス」…作詩:中原中也/作曲:友川かずき 収録 ・「私の花」…作詩:永山則夫/作曲:友川かずき 収録 <競輪に耽溺する友川かずきの著作> 『競輪生活-バンクの風に吹かれて』 『友川かずきの競輪ぶっちぎり勝負』 秋田生まれのシンガーソングライター友川かずきが作詞作曲した「海のそばで殺された夢」は、ちあきと出逢ってしまった友川に創る必然があった。 友川と出逢ったてしまったちあきなおみにはこの歌を選択し、唄う必然があった。 そして私には聞く必然があった。 それだけである。 これほど心凍らせる唄を私は知らない。 この「海のそばで殺された夢」は賛否両論を巻き起こした「夜へ急ぐ人」のシングルB面として昭和52年9月発売された。 歴史的CD-BOX「ちあきなおみ・これくしょん ねえあんた」(2000年6月発売)でCD化されるまで、永く中古レコードのプレミア盤として在った。 「海のそばで殺された夢」 月夜の晩に 夢を見たよ 海のそばで 殺された夢 その時 僕は 泣いていたよ みじかく 青い あの春を 黒い波にもまれ もまれて やがて きれいな 海の底へ やさしくゆれて むかえておくれ 海の藻よ 僕を 殺してくれた人 とても穏やかな 顔立ちの人 その時 僕は 叫んでやった しがらむ すべてに 「ありがとう」と 生まれて このかた こんなに 素直になれた僕は 初めてだろうな よかったな よかったな やさしくなれて 生きてるうちに ちあきは、深夜TVで唄う友川を偶然見て、友川に楽曲の依頼をしたという。 中島みゆきの書き下ろし「ルージュ」に続くシングル発売であり、ちあきの脱歌謡曲としての方向性を求める真摯な姿勢がうかがえる。 人間のナマの声を発することができるアーティスト達の饗宴が見られる。 撮影/山木明子氏 幻の傑作「夜を急ぐ人」について、奥崎和仁氏は解説で 「ちあきが初めてこの楽曲を披露した時、担当のテレビディレクターも驚愕し、唖然としたという。 ちあき自身が発案したというそのパフォーマンスは、それまでのちあきにはあまり見られなかった感情をあらわにしての歌唱や、髪を振り乱し、全身や顔の表情、手の先まですべてを使い表現する、あまりにも斬新なものだった。 曲の中に眠る、主人公の叫び、焦燥感、孤独などをちあき自身がすべて請け負い、自分の内面からすべて吐き出してしまうような、新たなちあきがステージの上にたっていたのだ。 しかし、その表現方法にはディレクターも観客も度肝を抜かれてしまったらしい。 」と述べている。 この「夜を急ぐ人」は紅白歌合戦で披露されるのだが、その度肝を抜くパフォーマンスは白組司会者に「なんとも気持ちの悪い歌ですね」とコメントされたが、ちあきは舞台袖でしてやったりとばかりに舌を出した。 ・・・かどうかは知らない。 一方、この「夜を急ぐ人」「海のそばで殺された夢」の楽曲提供に関して友川は 「いつだったか、新宿で、ちあきなおみのライブを聞き、彼女が唄ったジャニスジョプリンの歌、その声の凄まじさに、私はずっと鳥肌がたっていた。 あとにもさきにも、そのような経験はなく、ジャニスも私は好きで高校時代からよく聴いていたが、本家にさえ、それは感じたことがなかったのである。 どこにも、何ににも、それはまるで例えようのない、声、と言うより他はないのだが、その在りかに少しでも身を近づけようものなら、たちどころに首が吹き飛んでしまう、という、聴く側にもある種の覚悟が要る、声、であった。 」と語り、さらに「意志と狂気のある声、その持ち主は、きっと歌手になるずっと前から歌手で、待たれて待たれて、歌に辿り着いたに違いない。 」と述べている。 撮影/山木明子氏 ちあきは友川の詩曲の採用について『日本の女の狂乱を感じてもらえるとうれしい』と語っているという。 またこの頃ある雑誌で『乙女にも娼婦にも変身できる女性、三枚目もやれる歌手として今日まで来た。 器用貧乏的な感じで歌ってきたのね。 だから逆にちあきなおみには何かがなかった』と語っている。 まさに表現者としての自信に満ちた韜晦である。 それにしても、『紅とんぼ』で表現される演劇的空間の構成力・表現力の巧みさには舌を巻く。 中島みゆきの「夜会」の1年前に「LADY DAY」という一人舞台があるという。 ビリー・ホリデーの最後のステージを再現したものという。 想像しただけでも身震いする思いである。 いまだ切れば血の出る情念フォークを歌いつづけている友川かずき。 初期の友川の世界は同じ東北の青森県五所川原出身の三上寛のそれに似たものであった。 これは、これこそ「怨歌」である。 関西や九州に生まれた地方人と違って、東京にコンプレックスを持っている東北人が歌う逆上したかのような「怨歌」は多くの人間にダサイ暗いとバカにされその滑稽さを嗤われ、頭狂人の地方人に対する優越感を増幅させたが、井戸の底に石を落としても落としても水音が聞こえてこぬ現代、聴こえて来るのは頭狂人のエゴを嗤らう彼らの哄笑か? 95 991.

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友川かずき「肉声」(1976.7.25 HARVEST YC

友川 かずき

、全日本フォークジャンボリーに、飛び入り参加をする。 、に見出され、シングル「上京の状況」でデビュー。 、監督の『』に出演。 近年は、画家としても評価されている。 人物評 能代工業高校建築科に進学。 バスケットの練習に明け暮れた。 二十歳のころ、行きつけの赤提灯で岡林信康の歌を聴いた。 1974年3月「上京の状況」でデビュー。 高校時代や一時故郷にいた頃のエピソードは、バスケットボール部を全国大会で33回優勝させ、同部を全国屈指の強豪校にした、能代工業時代の恩師である著の『高さへの挑戦』に詳しく描かれている。 加藤廣志は友川かずきを自分以上のバスケバカで、環境によっては最大のライバル指導者になっていただろうと彼を評している。 実際、彼が同校のバスケットボール部のマネージャーだった時、有望選手を独自に育てている。 また、故郷にいた時に中学校時代のを鍛えたのも彼だった。 は友人であり、友川の絵を高く評価していた。 作品 アルバム• やっと一枚目 (1975年)• 肉声 (1976年)• 千羽鶴を口に咬えた日々 (1977年)• 俺の裡で鳴り止まない詩 〜中原中也作品集〜 (1978年)• 桜の国の散る中を (1980年)• 海静か、魂は病み (1981年)• 無残の美 (1986年、PSFD-33)• 花々の過失 (1993年、PSFD-29)• まぼろしと遊ぶ (1994年、PSFD-43)• 一人盆踊り (1995年、PSFD-59)• ぜい肉な朝 (1996年、PSFD-82)• 夢は日々元気に死んでゆく (1998年、PSFD-96)• 空のさかな (1999年、PSFD-8003)• 赤いポリアン(2000年、PSFD-8005)• エリセの目 (2001年、PSFD-8008)• 顕信の一撃 (2002年、PSFD-8013)• いつか、遠くを見ていた (2004年、PSFD-8019)• 赤い水、青い水 (2008年、PSFD-8028) ベストアルバム• 初期傑作集 (1989年)• 犬 〜秋田コンサート・ライブ〜 (1975年)• 1979年3月17日、18日に秋田田中屋で行われたライブの音源を収録。 Live-MANDA-LA Special (1994年、PSFD-36)• 歴代ライブのベストテイクを選曲したものを収録。 渋谷アピア・ドキュメント (1995年、PSFD-65)• 渋谷アピアで行われたライブでのベストテイクを選曲したものを収録。 ライブ2005 大阪・バナナホール (2005年、PSFD-8022)• 2005年8月13日にで行われたライブの音源を収録。 その他• 御縁 (1994年、PSFD-49)• とのジョイントコンサートの音源を収録。 星のプロセス(1998年、PSFD-101 - 103)• 過去の音源、ライブ音源、カバー曲、新曲がそれぞれ収録された3枚組アルバム。 友川かずきBOX (2003年、PSFD-134 - 146)• デビュー30周年記念。 『無残の美』から『顕信の一撃』までの全アルバム、『初期ベストアルバム』、『中原中也作品集』、新作『サトル』を収録。 13枚組。 書籍 詩集• 吹雪の海に黒豹が (1981年 無明舎出版)• 朝の骨 (1982年 無明舎出版)• 地の独奏 (1985年 矢立出版)• 破れ犬-報復の青き前途 (1986年 矢立出版) エッセー• 死にぞこないの唄 (1977年 無明舎出版)• 生きてるって言ってみろ (1985年 展転社)• ちぎれた青いノド (1988年 三心堂)• 天穴の風 (1994年 実業之日本社) 絵本• 青空 (1992年 青弓社) 文・立松和平• 天の虫 (1994年 読売新聞社) 文・立松和平 競輪• 友川かずきの競輪ぶっちぎり勝負 (1995年 ベストブック)• 競輪生活 バンクの風に吹かれて (1998年 ジャパン・ミックス ドキュメンタリー映画• 友川カズキ 花々の過失 (2009年 花々の過失制作委員会) 監督・ヴィンセントムーン 2010年12月・新宿K's cinemaほかで劇場公開 外部リンク•

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友川かずき 夜へ急ぐ人 (ちあきなおみに捧ぐ) 歌詞&動画視聴

友川 かずき

友川かずきは1950年2月16日秋田県八竜町に農家の次男として生まれる。 本名及位典司 のぞきてんじ。 祖父母の手で育てられ、中学時代に中原中也の詩「骨」に衝撃を受けて詩作を始める。 能代工業高校では名門バスケ部に所属しながらも太宰治・小林秀雄に傾倒し、詩作はノート30冊に及んだという。 1969年集団就職で上京、洋服問屋に勤めるが秋田訛りがひどく、接客に向かず6ヶ月で退社。 仕事を転々とするが"のぞき"という本名を笑われるのがイヤで、"友川かずき"という偽名を使って練馬の飯場へ。 若い者はひとりもいなくて「なんで自分だけこんなところにいるんだろう」と悶々としていたという。 詩を月刊誌に投稿したが認めてもらえなかった。 ある日ラジオから流れた岡林信康の「山谷ブルース」などに感動し、表現者として歌手を目指すことになる。 友人からギターを譲り受け自作詩に曲をつけ始めた。 1971年URCレコードのバイトで知り合ったあがた森魚からフォークジャンボリーのことを聞いて飛び入り参加を決意する。 1971年8月7日、中津川・ロック・サブステージ。 「数人の出番を待って、いよいよ友川の番がきた。 前に歌った人からギターを借りて、秋田なまりのアクセントを目一杯強調してうたい始める。 自分のいまのハングリーな状況が叫びとなってほとばしる。 ギターを弾き始めると、それを貸した男が急に心配そうに二、三歩ステージに近寄ったのだ。 弾くというよりヒッカキまわして叩いていたのだから。 誰だって山下洋輔に自分のピアノは貸したくない。 すっかり後悔している男の前で、ねばっこいツバをとばし噛みつくように歌い、青白い顔が紅潮しはじめた頃、ステージの横から「ハイ、次で交代」の声がかかる。 時間にして10分足らず、数十人からのパラパラとした拍手と共に、友川のフォーク・ジャンボリー夢の出演は終りを告げた・・・友川はステージを降りてからも、無念そうな顔をしていた。 そして、押さえきれないエネルギーを持て余したように、バスケットで鍛えた足にカツを入れて会場内を走りはじめたのだ。 その夜、友川は私達のテントに泊まりにきた。 きくと、あの後ずっと走っていたという」 鈴木勝生著「風に吹かれた神々」より 失意のうちに友川かずきは秋田に帰り、中学校でバスケのコーチなどをするが「いつかレコードを出したい。 歌で食えるようになりたい」という夢は捨てなかった。 再び上京、肉体労働を続けながらもライブハウスなどで歌うようになる。 そして蒲田のイタリアンレストラン「八十番」で歌っていたところを宇崎竜童に見初められる。 宇崎がこの歌うというより叫ぶ男のどこに引付けられたのかは解らないが、ダウンタウンブギウギバンドもまだ売れていないだろうこの時期に宇崎は友川の為に尽力する。 なんとか日の当たる所へ連れ出そうと尽力する。 そして1974年3月5日、友川かずきは東芝から「上京の状況/朝」でデビュー、続いてセカンドシングル「生きているって言ってみろ/人生劇場裏通り」をリリース。 まったく売れなかった。 しかし友川も宇崎もあきらめず、75年徳間音工に移籍、10月1日ファーストアルバム「やっと1枚目」を出すことになる。 こうして75年暮れに世に出るまでに秋田県からは、2つ年下の山平和彦が72年4月「放送禁止歌」で発売・即発禁という衝撃デビューをしたのをはじめ、74年9月には隣の高校出身の5つも年下の"とんぼちゃん"が「貝がらの秘密」でデビュー、同年3月"とんぼちゃん"の2人と同じ能代高校の松尾一彦、大館鳳鳴高校の大間ジローらが組んだ"ザ・ジャネット"が「美しい季節」でデビュー 松尾・大間はのちにオフコースへ 、同年10月山平和彦の演奏もしていた"マイペース"が名曲「東京」でデビュー、翌75年には"とんぼちゃん"の同級生だった宮城伸一郎が"がむがむ"でデビュー 宮城伸一郎はのちにARBを経てチューリップへ 、KEEBOW キーボー が「GIVE ME A KISS」でデビュー、因幡晃が75年のポプコンで優秀曲賞、世界歌謡祭でも入賞して翌年「わかってください」でデビューしている。 同じ秋田から、友川かずきがあえいでいる間にこれだけの後輩たちがデビューしてしまった。 しかし友川かずきは"ニューミュージック"と呼ばれるそれらとはまったく趣を異にしていたし、コンプレックスや挫折に勝る原動力はないことを、証明していく。 僕が初めて友川かずきを聴いたのが、セカンドアルバム「肉声」 1976. 衝撃的としか表現しえないアルバムだ。 育ての親である母方の祖父・児玉利道氏の危篤を受けて、東京から秋田に向かう状況から始まる。 「いなほ2号 もっと走れよ 遅いな遅いな ああ 俺の大事なおじっちゃが 死んじゃうよ 死んじゃうよ ああ おじっちゃ典司だ! 今帰って来たど! おじっちゃ典司だ! 今帰って来たど! 気をしっかり持てよ 気をしっかり持てよ 」 A-1「おじっちゃ」 大事な大事なおじっちゃへの愛が炸裂している。 悲しみが爆裂している。 心が止めどもなく揺さぶられる。 いなほ2号は上野発15:08、秋田着が22:36。 友川は次の八郎潟までだろうか。 余談になるけれど僕が帰郷のため乗っていたのは、急行津軽。 上野発22:41、故郷までは12時間かかっていた。 しかも寝台はすぐに売り切れてしまうため、自由席で帰ることになるのだが、座席どころか通路・デッキまで人であふれかえり、まるでマグロでも運ぶような状況で果てしなく長い時間揺られていくことになる。 そんな時代だ。 「おじっちゃは でごのがっこを ガリガリかじってえだ おがっちゃは でどごで ふぎの煮づげをこへでえだ 俺は薪ストーブのそばでいつまでも赤ぐなってえだ 冬は莫迦くへなぁ 寒いばしで莫迦くへなぁ 実際には"莫迦くしぇなぁ"と発音している 春早ぐ来てみろ! 春早ぐ来てみろ! このまま黙っては居ねがらな」 A-2「冬は莫迦くへなぁ」 訳すほどの秋田弁でもないと思うが、一応訳すとこんな感じだろうか。 「じいさんは大根の漬け物をガリガリかじっている かあさんは台所で蕗の煮付けをつくっている 俺は薪ストーブのそばでいつまでも赤くなっている 冬はつまらない 寒いだけでつまらない 春よ早く来てみろ! 春よ早く来てみろ! このまま黙ってはいられないぞ」 10月暮れには冬の気配が始まり、11月に初霜が降りたりすると「ああ、また冬が来てしまった」と絶望的な気持ちになったものだ。 4月上旬にばっけ ふきのとう が芽を出すまでのほぼ半年間、秋田は冬だった。 秋と春が異常に短くて、冬はとても辛かった。 はやくこの町を出たいと毎年思っていた。 今は温暖化でそうでもないかも知れないが、そんな当時を思い出す。 「過ぎて行くって言うことは 乾いて行くって言うことさ 泣いて夜がとけるわけもないのに 自分を無くして泣きだす女 自分をみつけて泣きだす男 あめらん くゆらん あめらん らふふ あめらん くゆらん くゆらん らふふ」 A-3「あめらんくゆらん」 「東京さんは仏頂面だよ 背中をためしにつっ突いてやってごらん ホラたちまちアリャ首がぶっ飛んだ だがづぐだがづぐだがだんづぐづぐ だんづぐづん だったんづぐづぐだんづぐづん 俺の腐った勇気の背後から陽が昇る だったんづぐづぐ陽が昇る」 A-4「だがづぐ」 詩人友川かずきの世界。 "あめらんくゆらん"や"だがづぐだがづぐ"が、やみつきになる。 「喋るうまさより黙るうまさが これからは大切だよ 唄ってるもいいし聴いてるもいいし らしさが出ていればだよ 鉛筆の重さに自分の哀しさを のせてやる夢を見たよ 似合った青春だよ 似合った青春だよ」 「二度とないから疲れてもいいんだ 男のいくさは一度きりだよ 創るもいいし壊すもいいし らしさが出ていればだよ 生きる怖さを勇気にかえて 好きなことやってみるんだよ 似合った青春だよ 似合った青春だよ」 A-5「似合った青春」 アップテンポに乗せて、身の丈を教えてくれる永遠の名曲。 ありがとう、友川かずき。 そしてA-6、「歩道橋」。 「歩道橋の上から愛が見える 汗を拭き乍らセールスマン風の男が歩いてく かごの中で鳥は狂い乍ら死んだ 枯れてうつむく赤いとうがらしの花 歩道橋の上から愛が見える 僕死ぬのは厭だ 僕死ぬのは厭だ僕 歌はひとつの「かご」かもしれないな」 「自動車。 弟の友春君への詩。 ・・・・」 ここから延々続く朗読。 当時事件を起こし留置所に入っていた下の弟へ向けた詩。 何度聴いても鳥肌が立つ。 どう向き合ってどう解釈すれば良いのか解らない。 「走り乍ら拳銃を撃つのはむずかしいんだろうか ねえ君は知ってるんだろう ねえ君こそ知ってるんだろう」 これほど魂を揺さぶられる詩を、僕は他に知らない。 B面に入ると、少しホッとさせられる。 やっと息継ぎができる。 コミカルな「春だなぁー節」 B-1 「冷蔵庫」 B-2。 「楽しい人なら誰でも好きさ あったかい人なら誰でも好きさ 無邪気で一途なら信用できそうだよ 福は内 鬼は外 晒してしまえない自分なんか ああ見たくもないさ 木端微塵さ 死ぬ為に生きる言葉と一緒に 木端微塵さ」 B-3「木端微塵」 「可哀想なトドと 可哀想な人間に唄います 北海道の空と海の蒼 かき分けるように生きてゆく動物達 役に立てば善だってさ 役に立たなきゃ悪だってさ 誰が断を下したんだよ トドを殺すな トドを殺すな 俺達みんなトドだぜ おい撃つなよ おい撃つなよ おいおい俺を撃つなよ」 B-4「トドを殺すな」 当時金八先生の劇中で三原順子がライブハウスに行くシーンで、友川自身が歌っている。 僕はそれを見たことがないが、あまりに強烈な詩で、取上げたスタッフのセンスは素晴しいと思う。 中島みゆきの「世情」同様に。 「悲しくなって空を見たが 空は僕を黙って見ているだけ 明日のことなど唄えない いつ死ぬかどこで死ぬか 本当にわからない 誰だろこんな夜更けに ハーモニカ吹いてさ」 B-5「ハーモニカ」 友川かずきの詩には"死"という言葉が何度も出て来る。 中原中也の「骨」「坊や」に惹かれていた当初から"死"について当たり前の様に考えていたのかも知れない。 あるいは祖父の死で"死"と隣り合わせに思える様になったのかも知れない。 1986年の名作「無残の美」では、死んでしまった友人たこ八郎と、自ら命を断った上の弟で詩人の覚 さとる のことを歌っている。 今で言うなら友川かずきはまるで"送りびと"のようだ。 しかし「鎮魂歌」ではなく「揺魂歌」。 無残な魂の揺さぶりを歌うのだ。 「もう働かなくてもよい 歯のきれいなおばあちゃん 私のお墓はどこですか 私のお墓はどこですか ああ寒さのかたまりが 僕から抜けません」 「あさっての方から飛んで来た 僕の孤独って奴は うたをひとつくっつけて 飢えた犬っころにでもくれてやるよ」 B-6「ちいさな詩」 「あんまり仲が良くなると そのうち石をぶつけ合うようになる それもだんだん大きい石をぶつけ合うようになる あたって痛くても そのうち笑い合うようになる 石の躰には『自分』とかいてあった 自分の躰には『クルクルパァー』とかいてあった」 「石にならなければ せめてクルクルパァーになれたらとおもう 喋ることの好きなクルクルパァーの伝説は それだけで もう歴史を超えるに違いないだろう」 B-7「石」 すごい人がいたものだ。 友川かずきの代表作「生きているって言ってみろ」は何度聴いても、どのテイクを聴いても「きているって言ってみろ」と聴こえる。 しかも"生きている"の"き"が鼻濁音のように聴こえる。 これは秋田弁特有の発音で"き"と"し"を同時に発音したような感じになる為で、その発音の前では"生きている"の"い"は殆ど言葉にならない為である。 僕はネイティブなので友川かずきと同じ発音にもなる。 だから何って感じだけど 友川かずきは言う。 孤独は財産だと。 僕は言う。 友川かずきは故郷の、秋田の誇りだと。

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