西武 新宿 線 踏切 事故。 西武鉄道新宿線連続立体交差事業 環境影響評価書案提出|東京都

西武新宿線下落合駅で人身事故!当時の様子画像と身元情報は?目撃者やネットの反応は!

西武 新宿 線 踏切 事故

9 SS04 5. 2 SS05 6. 1 SS06 7. 1 SS07 8. 0 SS08 8. 5 SS09 9. 2 -1953 9. 8 SS10 10. 7 SS11 11. 7 SS12 12. 8 SS13 14. 1 SS14 15. 3 SS15 16. 3 SS16 17. 6 SS17 19. 9 SS18 21. 2 -1954 22. 6 SS19 JR東: 24. 6 SS20 26. 0 SS21 -2000 28. 9 SS22 池袋線 29. 5 -1951 30. 5 SS23 31. 7 SS24 33. 7 35. 6 SS25 38. 6 SS26 41. 3 SS27 43. 9 SS28 -1939頃 46. 6 目次• 路線データ [ ]• 路線距離():47. 5km• :1067mm• 駅数:29駅(起終点駅含む)• 複線区間: - 46. 6km• 単線区間:脇田信号場 - 0. 9km• 電化区間:全線(直流1500V)• :自動閉塞式• 同駅を出ると、進行方向左手に現れるJR東日本の・・に並行して北進する。 のガードを越えて少々走ると、JR山手線のが現れるが、当線の駅は設けられていない。 、の校舎を右手に見ながらほぼ直線状に北進し、電車はJR山手線、とのであるに到着する。 高田馬場 - 鷺ノ宮 [ ] を出て右にカーブした後、下りながら左に急カーブしながらをまたぎ、その直後にJRをくぐり、進路を西に取る。 曲線半径は158m、30. 3の下り勾配のため、30の速度制限を受ける。 ここで地上に降りるが、これ以降は、ごく一部を除いてや区間を走らない。 山手線をくぐった後はまでと並行し、下落合駅手前ではに接する。 以降、する妙正寺川を途中数度渡りながら住宅密集地を進む。 はの下にあり、中線が1本あるで、との乗換駅である。 下落合寄りはカーブしており、通過の際に列車が大きく揺れる地点でもある。 の300m程西でと平面交差するが、でしていることが多い。 は内側2線の通過線を持ったである。 ただし、現在は後述のの関係で2面2線の相対式ホームと追い越し線の2面3線という形態となっている。 完成時には2面4線となる。 また、駅前はが発着するが、街路が狭隘なため、南行一方通行のみである。 ここに限らず都心寄りは狭隘な駅前を持つところが多い。 なお、中井駅からまでの内区間では、連続立体交差事業により地下化工事が始まっており、完成時には中野通りを含む7箇所の踏切が撤去される予定である。 野方駅直下でを乗り越し、を経て下り線のみ待避可能なとなる。 この高田馬場駅 - 鷺ノ宮駅間は半径300 - 600mのカーブが連続するため最高速度が抑えられることになる。 鷺ノ宮 - 上石神井 [ ] の西側の踏切でと交差する。 その先で右カーブした後は、多少のアップダウンこそあれど、比較的線形が良くなり、付近からはちらほらと畑が車窓に見え始める。 鷺ノ宮駅からの間ではのみがある。 またこの駅ではと交差しているが、電車から見える以外に地下トンネル()でも交差している。 附近からは住宅の密集度が低くなり、景観がらしくなってくる。 千川通り()を踏切で交差した先に、が南に広がり、島式ホーム2面3線のとなる。 ホームや階段は狭隘で、ホーム端はすぐ踏切となる。 なお、同駅付近でが交差する計画である。 上石神井 - 田無 [ ] 上石神井駅を出て次駅手前から下り勾配となる。 武蔵関駅の先でと並行する。 の北側をかすめると上り勾配となりとなる。 東伏見駅は同線では珍しい島式ホーム2面4線の待避駅である。 また、東伏見駅以西の各駅にはほぼ全ての駅にが整備されている。 途中南側にの緑を見ながら(支線)のアンダーパスを乗り越し、若干のと区間を経てを過ぎると、数少ない区間となっており、中に武蔵野製作所へのが作ったのガードを越えてとのを乗り越した後、再び地上に戻り武蔵境通りと平面交差するととなる。 と以外のすべての種別が停車する主要駅だが、島式ホーム2面3線の設備である。 この配線が同線の特徴である。 田無 - 小平 [ ] には寄りにがある。 それを横目に住宅街を西へ進む。 線路北側の家並の向こうにはが見える。 との市境付近より右カーブし、これよりの手前まで、進路を北西に取る。 カーブの先にがある。 島式ホーム1本であるが、かつては2面3線だった名残でホーム幅が広い。 駅のすぐ南にはが通っており、ここから次駅付近まで並行する。 駅のすぐ西側でとする。 道幅は広いが、南北を結ぶの各路線が通り、踏切が原因でしばしば渋滞が発生している。 住宅と畑が混在する一帯をしばらく進むとと斜めに平面交差する。 踏切の前後はカーブしており、列車が減速するため踏切渋滞に拍車をかけている。 また、踏切横にはがあるため、がしばしば立往生している。 カーブを過ぎるとが下をくぐる。 付近は畑が目立ち、空が広く感じる一帯である。 やがて上下線の間に引上線が割り込み、と分岐する島式ホーム2面4線の小平駅に着く。 小平 - 東村山 [ ] 小平駅は2面4線の駅であるが、待避駅ではなくとの分岐駅となっている。 このため小平駅まではであったのが、小平駅を出た直後はのようになっている駅である。 小平駅の北西にがあるため、駅付近には墓石屋が多く、春秋のの時期には北口前に露店が並び賑やかになる。 小平駅を出てしばらく拝島線と並行するが、拝島線は左に曲がって分かれていく。 右手に小平霊園を見ながら進んでいくとに到着する。 分岐駅に挟まれていることもあり、駅としては地味な存在ではあるが、それとは裏腹に駅周辺には都市銀行の支店やスーパーが充実している。 久米川駅を出るとすぐにとと交差する。 野方駅辺りからここまでは新青梅街道に並行する形で進んできたが、の手前で右カーブして北へ進む。 このカーブの所でと平面交差する。 主要道路との平面交差であるので、しばしば渋滞する地点である。 カーブを過ぎると左側にが現れ、東村山駅まで並行する。 新青梅街道との交差地点から先、東村山駅の先の都県境付近までの2. 3km区間、高架による連続立体交差化計画がある。 東村山駅は東に市役所などがある市の中心部のため、東口側は以前からが整備されている。 一方、昔ながらの雰囲気を残していた西口も2009年に新たな駅前広場が整備されるなど、再開発事業はほぼ完了した。 ただ、依然として狭い道が多い地域となっている。 東村山 - 所沢 [ ] 3面6線の東村山駅を出ると、としばらく並行する。 やがて西武園線が左にそれ、住宅街ながら緑の多い一帯を北に進む。 を走るようになると視界が開け、左に低い山並みを見ることができる。 と呼ばれ、映画『』のモデルとなった場所でもある。 に入ってすぐ左にがあり、小型やを見ることができる。 盛土が終わるとの秋津橋、さらにが頭上でし、池袋線と接続するとなる。 かつては駅手前の踏切の先でへが分岐していた。 3面5線で、複雑な線路配置であるが、新宿線だけを見ると、基本的にと言える。 改良工事が終了し、駅舎やが拡大されたものの配線自体に大きな変化はない。 所沢 - 新所沢 [ ] 所沢駅を出て直ぐに左へカーブし、進路は再び北西に取ることとなる。 のガードからは直線区間が続く。 東側はが一帯に広がり、西側は一方通行であったり、狭隘であっても線路沿いに道路が設けられており、東側のマンションや大規模団地開発に際しての配慮と思われる区間でもある。 新宿線内では最も新しい駅・に到着する。 市役所や、、、等の主だった公共機関が航空公園駅東口周辺に移転してきたこともあり、所沢市の行政の中心とも言える。 航空公園駅を出ると、住宅地をくぐり抜け、2面4線のに到着。 新所沢駅界隈も道路整備や街並みの整備により、以前とはまた違った顔を見せる。 開業時から繁華街として栄えた西口には等のテナントや、居酒屋が多く見受けられる。 へ出入する電車は、同駅・となる。 新所沢 - 狭山市 [ ] から次のまでは直線である。 両駅のほぼ中間、が斜めに交差した先にがある。 周囲は宅地よりも農地が目立つ。 入曽駅は、東伏見駅以西の各駅の中では唯一駅前広場が整備されていない。 入曽駅の先でと交差した辺りで緩い右カーブをなし、しばらく進むと左手にが広がる。 基地の東側に沿って進み、基地が終わると県道所沢狭山線が頭上を乗り越え、右カーブしながらに着く。 相対式ホーム2面2線の停車駅である。 が集中する駅の西側は駅前広場が無く道幅も狭いなど問題が多かったため、駅舎を含めた再開発事業が実施され、2012年に完了した。 狭山市 - 本川越 [ ] 狭山市駅を抜けると、しばらく右カーブの後直線状に走る。 この右カーブの先の進路は北東となる。 を過ぎると川越狭山工業団地の中を走り、その後、に入る。 すると、かつてとの分岐駅であったに着く。 安比奈線は1963年より長らく休止となっていたが、2017年5月31日を以て廃止となった。 その後、のガードをくぐり速度を上げるがとの立体交差付近で減速し、で区間へ入る。 JRとのガードをくぐり踏切を越えるとに着く。 運行形態 [ ] 運転される列車種別は、後述の「」の節の通りであるが、基本的に速達列車が途中駅から各駅停車となる典型的な郊外電車型の運行形態である。 また、周辺から郊外に伸びる総延長15km以上の路線では、唯一地下鉄とのを行っていない(は15km未満、は大手私鉄に含まれない)。 新宿線内のみを運転する列車のほかに、接続する西武の他線との直通運転が多く設定されている。 … 終日にわたりが直通している。 ・も一部が直通する。 (方面) … 平日朝に直通各停が下り1本上り3本、土曜休日に不定期運転の急行が下り3本上り2本設定されている。 … 2011年12月の東村山駅での以降、直通運転は中止されている。 開催時に、からの直通列車が運転されることがあった。 1998年3月まで西武新宿駅からの西武園行き快速急行の設定があった。 ・ … で試合が行われる日は、行き直通列車が運転される。 このほか、2016年4月17日より西武4000系 4009F を使用した「」が1往復、土曜・休日を中心に年間100日程度運転される。 西武新宿駅 - 所沢駅 - 間(所沢駅およびでは、進行方向が変わるのと乗務員交代を行なう目的での運転停車)で運転されているほか、2016年12月18日からは西武新宿駅 - 本川越駅間の新宿線全区間でも運転が始まった。 は、と、拝島線のが設置されている。 運行本数 [ ] 2019年3月16日時点での日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。 2020年3月14日現在の種別 [ ] 2020年3月14日のダイヤ改正時点での運転状況を記す。 特急 [ ] 特急専用車両の10000系 終日運転される。 正式名は「特急号」。 「」の愛称があり、全列車が西武新宿駅 - 本川越駅間の往復である。 1993年の「小江戸」運転開始当初は所要時間43分で走破していたが、2013年3月16日よりが正式に停車駅として追加された。 そのため、現行ダイヤでの所要時間は最短45分である。 1993年までは西武新宿駅 - 西武秩父駅間で、休日のみ「」号を運転していたほか、送り込みとして西武新宿駅 - 本川越駅間(上りは所沢駅発)を1往復「」号として運転していた。 2011年から2014年までは拝島線に直通する臨時特急が運行されていた。 2011年度は新宿線内は西武新宿駅・高田馬場駅・田無駅・小平駅に停車していたが、2012年度以降は田無駅は通過するようになった。 なお、2011年・2012年度は乗車駅が西武新宿駅・高田馬場駅に限定されていたが、2013年度からは限定なく途中乗車可能となっていた。 拝島ライナー [ ] 詳細は「」を参照 2018年3月10日のダイヤ改正から運行が開始された。 へ直通運転し、夕方・夜間に西武新宿駅発拝島駅行きが6本運転される。 車両はが使用される。 停車駅は高田馬場駅(乗車専用)、小平駅から先の拝島線の各駅。 西武新宿駅、高田馬場駅から乗車する場合は座席指定券が必要となるが、小平駅から先の各駅では乗車券のみで乗車できる。 通勤急行 [ ] は本川越駅・所沢駅から高田馬場・西武新宿方面への速達を目的に平日朝ラッシュ時の本川越駅発2本のみ運転される。 後述の急行では各駅に停車する本川越駅 - 田無駅間も急行運転を実施する。 拝島線の乗換駅である小平駅は停車しない。 なお、この時間帯にも急行は運転されている。 1993年にそれまで運転されていた平日朝ラッシュ時のの急行の停車駅を明確にする目的で、(現在は廃止)とともに登場した。 当時は現在のような田無駅以西での急行運転を実施せず、田無駅 - 高田馬場駅間でに停車し、を通過する種別を通勤急行と呼称した。 また、現在は所沢駅 - 本川越駅間の途中停車駅は新所沢駅・狭山市駅のみだが、当時この区間は各駅停車であった。 現在の停車駅となったのは2001年12月からで、朝ラッシュ時の所沢・本川越方面から西武新宿方面への速達列車の色合いが強くなった。 種別色は黄色またはオレンジ色である。 2018年3月10日のダイヤ改正以降は運用乱れ時を除き、原則40000系が使用される。 快速急行 [ ] 快速急行は川越へのアクセス向上を目的として、のダイヤ改正で復活した。 当路線では急行停車駅である鷺ノ宮駅と上石神井駅を通過し、田無駅に停車する。 田無駅から先も通過駅がある(停車駅は駅一覧を参照)。 これは2012年に廃止されたの廃止直前の停車駅と同一である。 - - - 間のみの運行で、には直通しない。 また全ての列車が下りのみの運行である。 運行本数は土休日の西武新宿発9時33分と10時21分の2本のみだが、本川越駅への所要時間が最短46分と急行と比べると10分短縮された。 8両編成を使用するため、10両編成が使用される東武の「」と異なり10両編成の40000系は使用されない。 種別カラーは池袋線と同じ紫色。 急行 [ ] 8両編成の急行西武新宿行き は、当路線の主力優等種別であり、本川越方面・拝島方面ともに終日運転される。 基本的には西武新宿駅 - 新所沢駅・本川越駅・拝島駅間で運転されている。 日中時間帯は1時間に6本で、本川越駅発着と拝島駅発着が20分間隔で交互に運転されており、西武新宿駅 - 小平駅間では10分間隔となる。 編成両数は平日日中を含めて10両編成での運転が基本であるが、土休日では8両編成で運転する列車が存在する (後述の準急も同様)。 また、玉川上水駅発着の列車が平日に朝の下り2本と夕方の上り3本(土休日は上り2本)、平日の下りと土休日の夕方には田無駅発着がそれぞれ2本設定されている。 各駅停車との接続は昼間時間帯は下りは鷺ノ宮駅で、上りは上石神井駅で行われる。 また小平駅では本川越駅発着の列車は小平駅 - 玉川上水駅・拝島駅間を運転する各駅停車に、拝島駅発着の列車は西武新宿駅 - 新所沢駅・本川越駅間の列車に接続する。 平日夕方時間帯(20時まで)は下りは中井駅で各停を追い越し、鷺ノ宮駅・上石神井駅・小平駅で接続する。 平日朝ラッシュ以外の時間帯は下りは鷺ノ宮駅・小平駅で接続、上りは小平駅(拝島方面からの列車)または田無駅(所沢方面からの列車)と上石神井駅で接続する。 平日朝ラッシュ時は列車によって異なる接続をする。 下り列車の田無駅から終点までは、では急行と表示されても、では各停と表示される(これは後述の準急も同様)。 ほぼ終日にわたり、下り列車の拝島・本川越方面行きは鷺ノ宮駅・上石神井駅・東村山駅・新所沢駅のいずれかで(拝島方面行は朝夕のみ)、また本川越・拝島方面からの上り列車は新所沢駅・東村山駅のいずれかで特急に抜かれる。 での野球等イベント開催時には、平日ナイターでは西武新宿駅 - 所沢駅 - 池袋線 - 間の臨時列車が、土休日デーゲーム他不定期に西武新宿駅 - 小平駅 - 拝島線 - 間の臨時列車が運転される(西武遊園地駅から乗り換えで西武球場前駅)。 1993年のダイヤ改正以前は、平日朝ラッシュ時の上りに限り通常の急行以外に、田無駅 - 高田馬場駅間で途中、上石神井駅にのみ停車する急行(本川越駅発)と、鷺ノ宮駅にのみ停車する急行(拝島駅・西武遊園地駅発)が運転されていた。 停車駅こそ違ったが、どの種別も一括して「急行」と呼称され不明確であったため、ダイヤ改正後は前者を通勤急行、後者を快速と呼称するようになった。 かつては萩山駅で連結・切り離し作業を行う列車(西武新宿駅寄り4両が西武遊園地駅発、拝島駅寄り6両が拝島駅発)も存在していたが、3月15日を以って運行を終了した。 2016年3月21日までの土休日は西武遊園地駅発着の列車もあり、この列車は多摩湖線のホーム有効長の関係上8両編成で運転されていた。 2016年3月26日実施のダイヤ改正で、西武ドームにおけるプロ野球試合開催日や夏休みなどの不定期運転に格下げされ、上りは2本とも田無駅始発を延長して不定期的に運転する形を取った。 種別色は朱色・赤文字である。 準急 [ ] 新宿線内の準急は平日が日中時間帯以外に、土日は早朝と夕夜間に設定されている。 写真は30000系30105Fによる準急拝島行き 準急は、急行を補完する形で早朝・平日朝ラッシュ時、平日夕方・夜間・前に運行される。 基本的には西武新宿駅 - 田無駅・新所沢駅・本川越駅・拝島駅間の運転系統が基本である。 早朝・深夜の一部を除き、多くの列車が鷺ノ宮駅以遠の停車駅で、急行・拝島ライナー・特急に追い抜かれる。 かつては終日にわたり運行されていたが、大部分の列車はのダイヤ改正で急行に格上げされる形で廃止された一方、からは拝島駅発着の準急を平日限定で朝・夕方・夜にも運行し、また本川越駅発の急行の一部を準急に格下げして本数を増やした。 一方、土休日は西武新宿駅 - 新所沢駅・本川越駅間で合わせて下り3本、上り4本のみの設定であった。 2018年3月10日のダイヤ改正より、一部急行を格下げする形で休日夕夜間の準急が復活し、始発駅を17時以降に発車する列車が設定されたが、2019年3月16日のダイヤ改正で休日夕方の準急は再び急行に格上げされて消滅した。 種別色は緑色である。 各駅停車 [ ] 主に朝・夕に運転される各停新所沢行き 各駅に停車する。 西武新宿駅 - 本川越駅間の全線を運転する列車のほか、西武新宿駅 - 上石神井駅・田無駅・新所沢駅間の区間列車が運行されている。 昼間時間帯以外には西武新宿駅 - 玉川上水駅・拝島駅間の拝島線直通列車が運行されている。 また、平日朝に西武新宿駅 - 西武遊園地駅間の拝島線・多摩湖線直通電車が下り1本上り3本、本川越発新所沢行きが1本(新所沢駅で始発の各駅停車西武新宿行きと接続)運転されている。 各駅停車のみ停車する - ・ - の各駅のホームの長さは8両分しかないため、基本的に8両編成で運転されるが、早朝・深夜には出入庫の関係で同区間を含まない列車が10両で運転される場合もある。 野球開催時には、本川越 - 西武球場前間の列車も運転される。 土休日は深夜に1本だけ本川越発所沢行きの列車が存在する。 2019年3月15日まで国分寺線直通列車も運行されていたが、東村山駅周辺の高架化工事進捗に伴い、2019年3月16日のダイヤ改正で一時的に直通運転は休止された(完成は2024年度の予定)。 これを補完する目的で、日中時間帯に毎時1本運転されていた西武新宿駅 - 新所沢駅間の区間運転は本川越駅発着となり、新宿線の全線運転は毎時3本に変更された。 国分寺線は各駅のホーム有効長が6両編成のため、直通列車は6両編成で運転されていた。 以前は「普通」と称していた。 2008年4月頃まで駅の案内表や案内では、「準急」以上の列車の各駅停車区間も含めて「各駅停車」「各停」として案内されていたが、列車に表示される種別表記は「普通」となっていた。 だが、30000系や新2000系更新車に搭載されたフルカラーLED表示機において「各停」の表記がなされるようになったのを皮切りに、「各停」の表記を行うようになった。 かつては西武園駅発西武新宿駅行きの列車も運転されていたが、2011年12月24日に東村山駅で脱線事故が発生し、その後運転が休止された。 また2012年6月30日のダイヤ改正までは萩山駅で切り離しする10両編成の上石神井駅発拝島駅・西武遊園地駅行きも存在した。 種別色は灰色である。 廃止された種別 [ ] 快速急行 [ ] 初代 [ ] 初代のは1980年3月のダイヤ改正から1998年3月26日のダイヤ改正まで存在した。 後述の1998年3月26日から2012年6月29日まで運行されていた快速急行とは別の種別であり、• 開催日に平日・土曜・休日とわず運転の西武新宿駅 - 西武園駅間運転の往復の競輪臨時快速急行• 土曜・休日のみに西武新宿駅 - 西武遊園地駅間で往復運転の行楽快速急行• プロ野球・西武ライオンズの公式戦開催日(土休日ダイヤの時のみ)と同 日本シリーズ開催日の平日・土曜・休日とわず運転の西武新宿駅 - 西武球場前駅間運転の往復の野球臨時快速急行• 西武新宿駅 - 本川越駅間の快速急行(土休日のみの運転で通称「急行」) 以上の4つが設定されていた。 1990年までは行楽時期のみの不定期列車扱いでもあった。 停車駅も1998年から2012年まで運行されていたものとは異なり、本川越駅発着列車については西武新宿駅、高田馬場駅、鷺ノ宮駅、田無駅、所沢駅、狭山市駅、本川越駅。 その他については西武新宿駅 - 田無駅間の急行停車駅、小平駅、(西武遊園地駅発着; 萩山駅、西武遊園地駅、晩年は、にも停車)、東村山駅、(西武園駅発着;西武園駅)、所沢駅、西所沢駅、西武球場前駅だった。 その後、他線への乗り入れを行う快速急行は臨時運転としてでも西武トレインフェスタ開催時の西武新宿駅 - 間の列車やにデビュー記念の一環として西武新宿駅 - 西武球場前駅間を1往復したのみである。 詳細は「」と「」を参照。 2代 [ ] 2012年6月29日の運転を持って消滅した西武新宿線の快速急行(2代)。 末期は、最新鋭のも使用されていた。 (2012年5月、西武新宿W機にて) 1998年3月26日 から2012年6月29日までの快速急行は、全列車が西武新宿駅 - 本川越駅間で平日のみに運転され、日中に上下線で運行されていたほか、朝8時台の下り2本が運行されていた。 平日の日中は、60分サイクルのの中で、西武新宿駅、本川越駅とも特急と交互に30分間隔で発車し、全線の所要時間が特急とほぼ変わらないことから、特急を補完する役割も果たしていた。 また、全列車とも東村山駅または新所沢駅で先行する列車に接続した。 以前は8両編成で運行されていたが、原則10両編成で運転された。 1998年の運転開始当初「川越号」の愛称が付けられていた が、2008年6月14日のダイヤ改正で愛称が廃止された。 のダイヤ改正から東村山駅と狭山市駅が停車駅に追加されたが、西武新宿駅 - 本川越駅間の最短所要時間は改正前の47分より1分短縮され46分となった。 これに伴い、同改正まで狭山市駅には快速急行の上の種別である特急が停車し、代わりに快速急行は新所沢駅に停車するを行っていたが、これも解消された。 のダイヤ改正で・・が停車駅に追加され、新所沢駅 - 本川越駅間は各駅に停車するようになり 、西武新宿駅 - 本川越駅間の所要時間は50分となった。 そのため、入曽駅・新狭山駅・南大塚駅には快速急行が停車し、代わりに・には通勤急行が停車する千鳥停車が発生した。 特急「小江戸」運転開始前は土休日のみの運転であり、基本的には西武新宿駅 - 西武遊園地駅、西武園駅(競輪開催時のみ。 平日にも運転)、西武球場前駅(野球開催時のみ)、本川越駅間での運転であった(詳しくは前節のの項を参照)。 2012年6月30日のダイヤ改正で、日中の列車種別が各駅停車・急行・特急「小江戸」に統一され、朝ラッシュ時に運転していた下り2本も急行に格下げされたため廃止された。 廃止時の停車駅:西武新宿駅 - 高田馬場駅 - 田無駅 - 東村山駅 - 所沢駅 - 新所沢駅から本川越駅までの各駅 拝島快速 [ ] 2008年6月14日から2012年6月29日まで運転された拝島快速(写真右側の2000系)。 2011年 南入曽車両基地のイベントにて。 2008年6月14日のダイヤ改正より新設された拝島線直通の優等種別で、平日・土休日とも日中に運転された。 急行よりも上位の種別であり、西武新宿駅 - 拝島駅間を急行より3分短い所要時間43分で結び、全ての列車が西武新宿駅 - 拝島駅間で運転された。 拝島線では急行以下の種別は各駅に停車するため、同線唯一の優等種別となっていたほか、新宿線内で急行が停車するを通過した。 このため、快速とは別の種別であった。 全ての列車が田無駅で玉川上水駅発着の各駅停車(一部は田無駅を始発・終着とする)と接続し、小平駅で本川越駅・新所沢駅発着の各駅停車と接続した。 英文種別表記は池袋線系統の快速と同様「Rapid」であるが、自動放送のある車両では「Haijima Rapid」と放送された。 また、車両の種別表示においては「拝島快速」または「快速」であった。 ほとんどの列車が10両編成で運転されるが、一部列車は折り返し前後が各駅停車であることから8両編成で運転された(これは急行・準急も同様)。 快速急行と同様、2012年6月30日のダイヤ改正で廃止された。 廃止時の停車駅:西武新宿駅 - 高田馬場駅 - 鷺ノ宮駅 - 上石神井駅 - 田無駅 - 小平駅( - 玉川上水駅から拝島駅までの各駅) 快速 [ ] は1993年12月6日のダイヤ改正から2001年12月のダイヤ改正まで存在した種別。 通勤急行(前述)と同様に、それまで運転されていた平日朝ラッシュ時のの急行の停車駅を明確にする目的で運転された。 上りのみの設定で、拝島駅・西武遊園地駅 - 西武新宿駅間に9本運転され、停車駅は田無駅までの各駅・鷺ノ宮駅・高田馬場駅・西武新宿駅であった。 田無駅 - 高田馬場駅間で上石神井駅を通過して鷺ノ宮駅に停車するという、当時の通勤急行とは千鳥停車になるダイヤだったが、その後当時の通勤急行は停車駅の変更がなされ、当種別は急行に統合され消滅した。 ただし方向幕は現在も快速が運行されている池袋線と共通のため、新幕に交換された2012年6月現在でも快速幕がほかの種別や行先に置き換えられないまま存在している。 なお、2001年12月のダイヤ改正以降は、田無駅 - 高田馬場駅間で千鳥停車となる種別は運行されていない。 使用車両 [ ]• (臨時列車・試運転・回送のみ) 新2000系や6000系、9000系が導入される1990年代前半まで3ドア車の天下であったとは対照的に、1977年の2000系運転開始以来4ドア車の比率が高くなっており、2020年現在は特急を除く全ての列車が4ドア車で運転されている。 2000系・新2000系の運用には様々な組み合わせが見られ、6両編成(2000系又は新2000系)と4両編成(新2000系)を連結した10両編成や、6両編成(2000系)と2両編成(新2000系)を連結した8両編成といったパターンがある。 8両以上の編成が検査に入り、車両が不足気味である際は朝ラッシュ時を中心に4両編成2本と2両編成を繋げた10両編成が見られることがある。 2両編成と8両編成、6両編成と4両編成を連結する場合、2両編成や4両編成は本川越・拝島寄りに連結することが多い。 4000系 過去の車両 [ ] 501系以前の17m車は省略• 女性専用車 [ ] 本路線には、平日朝ラッシュ時間帯にが導入されている。 詳細は以下の通り。 2013年3月18日 -• 平日の朝7時20分から9時30分までに西武新宿駅へ到着する、急行・通勤急行・準急の 10両編成全列車。 実施区間は、西武新宿線内の全区間と拝島駅から西武新宿駅までの全区間で、進行方向の一番前側にあたる先頭車両(1号車)。 設定開始当初 - 2013年3月15日まで• 平日朝7時20分から9時20分に西武新宿駅へ到着する上り10両編成の急行・通勤急行・準急の進行方向先頭車両(1号車)。 実施区間は全区間。 拝島線・多摩湖線から直通する急行では、西武遊園地駅からの全区間で実施し、拝島線の拝島駅からの間では実施されない。 女性専用車で運行される列車には、西武鉄道公式サイト および対象となるホームの乗車口などに掲出されているほか、駅構内の備えられている時刻表に女性専用車であることを示すマークが付記されている。 なお、当該時間帯の急行・通勤急行・準急であっても、8両編成で運転される列車での設定は無い。 ダイヤが乱れた場合は中止される。 10両固定編成にあたる6000系、20000系0番台、30000系10両編成、40000系のみ専用ステッカーを掲示している。 近年の輸送実績を下表に記す。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 国分寺 - 川越間の鉄道は、、、の物産を貨物輸送する目的で、12月に仮免許が申請された。 が - 間(現在の)を既に開通させており、国分寺駅で接続して東京へ物資を運ぶ計画であった。 翌1891年に甲武鉄道の関連会社として川越鉄道が設立され、1893年に工事を委託された甲武鉄道によって川越・国分寺両側から工事が着工された。 しかし架橋工事で、架橋が狭く大水時に水害を呼ぶと反対運動が起こったため、柳瀬川南岸に久米川(仮)駅を設置し、に国分寺駅 - 久米川(仮)駅間が先に開業した。 これは現在のに当たる。 翌に久米川駅(仮) - 川越駅(現・本川越駅)間が開通し、この路線(川越鉄道川越線)が現在の西武新宿線の東村山駅以北となっている。 こうして、川越鉄道線は、川越 - 東村山 - 新宿・飯田町(現在のに相当)という、川越から東京都心に至るまでの鉄道路線を形成した。 しかし、のの制定によって、乗り入れ先であった甲武鉄道は国有化され、川越鉄道は都心への直通ルートを失った。 そのような中、に入ると、東上鉄道(現在の)と武蔵野鉄道(現在の)が相次いで開業し、東京 - 埼玉県西部地域間の輸送競争が熾烈化。 運用面でも運賃面でも不利な状況に迫られた川越鉄道は、いくつかの電力会社との合従連衡を経て、西武鉄道(旧)となった。 のにより、都心から郊外鉄道沿線に移住する流れが起こり、郊外鉄道開業が相次ぐ。 西武も独自の都心乗り入れを目指した。 に村山軽便鉄道の - 間の免許を譲り受け、には、淀橋 - 荻窪間を結ぶ西武軌道(のちの)を手中に収めた。 こうして、かつての川越鉄道線と、西武軌道線を、村山軽便鉄道の免許線でつないで、川越 - 新宿間という、都心直結鉄道を作ることが目指されたが、西武軌道線はで、高速運転には不向きであることから、この計画は放棄された。 西武鉄道(旧)は、改めて別ルートでの都心乗り入れを目指し、には井荻 - 高田馬場間、には高田馬場 - 早稲田間の免許を得て、に東村山駅 - 高田馬場駅間を 村山線として複線・電化で開業するに至った。 同年には川越線の東村山駅 - 川越駅間を電化し、現在と同じ高田馬場駅 - 川越駅間の直通運転を開始し、悲願の都心再乗り入れが果たされた。 しかし、村山線は中央本線と武蔵野鉄道の中間地域を通過したため、輸送競争はさらに激化し、所沢駅を共用する武蔵野鉄道とは、社員間のトラブルが発生するほど険悪になった。 しかし、期に行われた私鉄統合により、宿敵の武蔵野鉄道と合併して、現在の西武鉄道となり、両者の競争は終結した。 の、西武はへの乗り入れを目論んで、高田馬場から西武新宿駅へ延伸し、西武新宿駅 - 本川越駅を 新宿線に改めた。 一方、国鉄新宿駅への乗り入れは、予定地が手狭だったことから中止した。 輸送力増強のため、都内の一部区間の化(地下方式)が計画されたが、バブル崩壊によって中止された。 年表 [ ]• (24年) - 川越鉄道に対し鉄道布設仮免状下付• (明治25年) - 免許状下付• (明治27年) - 川越鉄道川越線国分寺駅 - 久米川(仮)駅間 8. 0km 開業(非電化)。 小川駅、久米川(仮)駅開業。 (明治28年)• - 久米川(仮)駅 - 川越駅(現在の本川越駅)間 21. 7km 開業(非電化)。 所沢駅、入曽駅、入間川駅、川越駅開業。 久米川(仮)駅廃止。 - 東村山駅開業。 (明治30年) - 南大塚駅開業。 (2年)• - 東村山駅 - 川越駅間電化(直流1500V、以後は開業時から電化)。 4月16日 - 村山線高田馬場(仮)駅 - 東村山駅間 23. 7km 開業(複線)。 下落合駅、中井駅、新井薬師前駅、沼袋駅、野方駅、鷺ノ宮駅、下井草駅、井荻駅、上井草駅、上石神井駅、武蔵関駅、上保谷駅、西武柳沢駅、田無駅、花小金井駅、小平駅、久米川駅開業。 (昭和3年) - 高田馬場駅 - 高田馬場(仮)駅間 0. 5km 開業。 高田馬場(仮)駅廃止(4月14日限り)。 (昭和4年) - 上保谷駅を東伏見駅に改称。 (昭和8年) - 競馬開催時の臨時駅として南大塚駅 - 川越駅間に川越競馬場前駅開業。 (昭和12年) - 野方駅 - 鷺ノ宮駅間に府立家政駅開業。 (昭和13年) - 所沢駅 - 入曽駅間に所沢飛行場前駅開業。 (昭和14年)頃 - 川越競馬場廃止により川越競馬場前駅使用停止・廃止。 (昭和15年)• - 花小金井駅 - 小平駅間に東小平駅開業。 - 川越駅を本川越駅に改称。 (昭和16年) - 所沢飛行場前駅を所沢御幸町駅に改称。 (昭和17年) - 鷺ノ宮駅 - 下井草駅間に西鷺宮駅開業。 (昭和18年) - 府立家政駅を都立家政駅に改称。 (昭和25年) - 東村山駅 - 間複線化。 (昭和26年) - 所沢御幸町駅を1. 4km北へ移築し、北所沢駅を開業。 (昭和27年) - 西武新宿駅 - 高田馬場駅間 2. 0km 開業。 新宿線に改称。 川越線東村山駅 - 本川越駅間を新宿線に編入。 (昭和28年) - 西鷺宮駅廃止。 (昭和33年) - 柳瀬信号所 - 所沢駅間複線化。 (昭和34年) - 北所沢駅を新所沢駅に改称。 (昭和39年) - 新狭山駅開業。 (昭和42年) - 所沢駅 - 新所沢駅間複線化。 (昭和44年) - 新所沢駅 - 入曽駅間複線化。 (昭和50年) - 入曽駅 - 入間川駅(現・狭山市駅)間複線化。 (昭和51年) - 休日に限り西武新宿駅 - 西武秩父駅間直通の特急「」号、西武新宿駅 - 所沢駅間「」号運行開始(「」も参照のこと)。 (昭和52年) - 現在の地上25階建て西武新宿駅新・駅舎完成。 同年、西武鉄道としては以来久々となる4ドア車のが登場。 (昭和54年)3月25日 - 入間川駅を狭山市駅に改称。 (昭和55年) - 南大塚駅 - 脇田信号場間複線化。 (昭和62年) - 所沢駅 - 新所沢駅間に航空公園駅開業。 (元年) - 新狭山駅 - 南大塚駅間複線化。 (平成3年) - 狭山市駅 - 新狭山駅間複線化。 (平成4年)4月1日 - 新SEMTRACの本格稼働開始。 (平成5年) - 西武新宿駅 - 本川越駅間の特急「」号運行開始。 (平成7年) - 西武新宿駅 - 間の開始(基本運賃200円を170円に値下げ)。 (平成9年) - 西武新宿駅 - 上石神井駅間の特別減算運賃再実施(170円を190円に値上げ)。 (平成12年) - 西武鉄道としては4年ぶりとなる新型車両が新宿線から定期営業運転開始(前年に試運転された)。 (平成14年)4月1日 - 西武新宿駅 - 上石神井駅間の特別減算運賃(190円)の終了に伴い基本運賃(200円)に戻す。 (平成15年)3月12日 - ダイヤ改正で新所沢駅から国分寺線国分寺駅へのが始まる。 (平成18年)• - 更新された運行管理システムSEMTRACの本格稼働開始。 - 本川越駅開業111周年記念として、本川越駅発快速急行国分寺駅行が運行される。 (平成19年)• - ダイヤ改正で快速急行の停車駅に東村山駅・狭山市駅を追加。 - 西武新宿駅 - 本川越駅間で、(本務10108F、露払い10106F)によるが運転される。 (平成20年)• - 新型車両運行開始。 - ダイヤ改正で「拝島快速」の運転開始。 国分寺線との直通運転が本川越駅まで延長される。 国分寺駅 - 本川越駅間の定期列車の運行は1927年の村山線開業以来81年ぶり。 (平成21年) - 1枚のでJR高田馬場駅 - JR新宿駅間と西武新宿駅が利用可能な特殊連絡定期券の発売が開始される。 (平成23年)• - ダイヤ改正により快速急行の停車駅に入曽駅・新狭山駅・南大塚駅が追加される。 3月14日 - 同月11日に発生した()による発電所の停止に伴う電力供給逼迫のため、がを実施。 これに伴い、この日から快速急行・拝島快速・通勤急行・急行・特急の運転が休止される。 4月1日 - 通勤急行・急行・特急の運転が再開される。 - 土休日の拝島快速の運転が再開される。 - 平日の拝島快速の運転が再開される。 - 16時40分頃に東村山駅で各駅停車による列車脱線事故が発生し、小平駅 - 所沢駅間が終電まで運休する。 - 西武園線への直通運転を休止。 (平成24年) - ダイヤ改正により日中の種別を各停・急行・特急に統一。 準急が朝と夕方・夜間のみの運転となり、快速急行と拝島快速を廃止。 (平成25年)• 4月1日 - 東京都が中井駅 - 野方駅間の認可を国土交通省から取得。 12月10日 - 東京都が東村山駅付近連続立体交差事業の認可を国土交通省から取得。 (平成26年)1月 - 中井駅 - 野方駅間地下化工事開始。 (平成27年)1月 - 東村山駅付近高架化工事に着手。 (平成28年) - 観光列車「」運転開始。 (平成30年) - 「拝島ライナー」の運行を開始。 - 東村山駅周辺の高架化工事進捗に伴い、ダイヤ改正により国分寺線への直通運転を休止。 - のサービス「アイカサ」を全29駅で開始。 (令和2年)• 3月14日 - 土休日の快速急行の運転が再開される。 - 終電後、東村山市役所付近の上り線を仮上り線に切り替え。 4月8日 - 事業に必要な用地の取得状況により、中井駅 - 野方駅間連続立体交差事業の施行完了日を2021年3月31日から2027年3月31日に変更することを中野区が発表。 2024年(令和6年)度 - 東村山駅付近連続立体交差事業完了予定。 2027年(令和9年)3月31日 - 中井駅 - 野方駅間連続立体交差事業完了予定。 駅一覧 [ ]• - までが、 - までがに所在。 線路:脇田信号場 - 本川越駅間は単線、それ以外は全線複線 駅番号 駅名 駅間 キロ 累計 キロ 各駅停車 準急 急行 通勤急行 快速急行 特急 接続路線・備考 所在地 SS01 - 0. 0 2. 2 3. 7 3. 3 5. 9 6. 0 7. 9 8. 5 8. 3 9. 9 10. 0 11. 1 12. 3 14. 2 15. 0 16. 3 17. 3 19. 7 22. 0 24. 4 26. 9 28. 6 30. 2 31. 9 35. 0 38. 7 41. 6 43. 6 47. 過去の接続路線 [ ]• 南大塚駅: - 2017年5月31日廃止 廃駅・廃止信号所 [ ]• (鷺ノ宮駅 - 下井草駅間、廃止)• (花小金井駅 - 小平駅間、小平駅に統合廃止)• (東村山駅 - 所沢駅間、同区間複線化完成時に廃止)• (所沢駅 - 航空公園駅間、廃止)• (南大塚駅 - 本川越駅間、開催時のみの、頃廃止) 付記 [ ] 新駅構想 [ ] 国鉄新宿駅乗り入れの際に、高田馬場駅 - 新宿駅間に「西武大久保駅」ができる予定であった。 また、開業後も、地下路線を利用して国鉄新宿駅に乗り入れる構想を捨てていなかった(地下急行線計画とは別である)。 複々線構想 [ ] 期、新宿線は利用客のさらなる伸びが見込まれ、飽和状態にあった輸送力状況を打開する切り札として、上石神井 - 西武新宿間を化する構想が何度も持ち上がっていた。 在来線直下の地下40メートル-60メートルを掘削して地下線を増線し、工期と費用の点から地下線は高田馬場と西武新宿の二駅のみの急行線とする計画が事業化されることになった。 地下線の西武新宿駅ホームは新宿駅寄りに設け、他線との乗り換えを改善する計画もあった。 この計画は、1987年12月に特定都市鉄道整備事業計画の認定を受け、翌88年9月にの認可が下り、制度導入による運賃加算も行われた。 によるトンネルの調査設計はに依託され、工事は部分的に着手された。 ところが技術上の問題で工事費用が膨らみ、景気減退やを背景とした見込み利用者数の減少、輸送人数に応じた避難経路を確保するための建設費高騰もあり、1995年1月になって計画は無期延期となった。 その際、積立金として加算された分は、特別減算を実施し運賃の一時的な値下げが実施された。 代わりに、新宿線の線形改良・ホーム改良工事等が実施されている。 2019年に東京都は計画を廃止するための都市計画素案を作成した。 これにより複々線化計画は正式に中止となる。 連続立体交差事業 [ ] 野方駅 - 井荻駅間 と井荻駅 - 西武柳沢駅間(高架化方式 )の2か所が、準備区間となっている。 このうち、井荻駅 - 西武柳沢駅間については、2020年度に都市計画の決定を進め、2021年度から2022年度にかけて国への事業認可申請を目指す。 その後、2023年度に事業を着工し、2038年度に完了する予定。 このほかに、田無駅 - 花小金井駅間が検討対象区間となっている。 東京メトロ東西線相互直通運転について [ ] 中野区議会は2015年3月9日に、中井駅 - 野方駅間の地下化工事に合わせた、との相互直通運転に関する資料を公開した。 現状の高田馬場駅は、新宿線ホームが地上2階に対し、東西線ホームが地下2階にあるため、乗り換えに多くの時間を費やすこと、さらには、高田馬場駅利用者にはJRに乗り換える人もいるため、ラッシュ時に相当混雑していることなど、多くの問題を抱えていることなどを理由として、東西線との相互直通運転についても「実現に向け取り組んでいく」としている。 キロポストについて [ ] 新宿線では、距離を示すが起点である西武新宿駅から終点の本川越駅に向かって純粋に増えるよう設置されているわけではない。 これは歴史的な経緯によるもので、おおむね以下の3区間に分かれており、キロ数が増える方向も下り方と上り方が混在している。 は、戦後に高田馬場駅から西武新宿駅まで延伸された際、既に0kmポストがある高田馬場駅を起点に上り方向に打たれたものである。 高田馬場駅ホームの下り方終端部にある0kmポストからマイナスになるように設置されており、西武新宿駅の終端付近に2kmポストが存在する。 は、旧西武鉄道時代に当路線が開通した際、東村山駅から本川越駅まではポストが既設であったので、新たに起点となる高田馬場駅ホームの下り方終端部の0kmポストから、合流地点の東村山駅付近まで設置したものである。 ただし終端については東村山駅構内までではなく、所沢駅の南側まで設置されている。 は、旧川越鉄道時代に設置されたもので、歴史的な経緯上、本川越駅を0kmとして設置され、東村山駅からは国分寺線国分寺駅に向かってへ連続して打たれている(このため国分寺線のキロポストは全て本川越駅からの通算距離を示している)。 ただし本川越駅の0kmポストは駅改良工事などの関係で現存しておらず、実際のポストは0. 3kmからとなっている。 また、名目上は本川越駅 - 東村山駅 - 国分寺駅と連続しているが、実際には所沢駅南側の19. 5kmポストから東村山駅構内(21. 9km)まで一旦ポストが中断している。 この中断の開始地点は2. の高田馬場駅起点のキロポストが打ち止めとなる地点のすぐそばにあたり、ここでキロポストが切り替わっている。 脚注 [ ] []• - 西武鉄道、2019年1月31日閲覧。 - 西武鉄道、2019年1月31日閲覧。 日本語 PDF プレスリリース , 西武鉄道株式会社, 2017年11月20日 , 2017年11月21日閲覧。 PDF プレスリリース , 西武鉄道, 2020年1月29日 , 2020年3月15日閲覧。 これは折り返し前後が西武新宿駅発着の各駅停車になる列車があるため。 改正前は概ね - 本川越駅間運行の各停と新所沢駅で連絡していた。 改正後は国分寺駅 - 本川越駅間各停の時刻を30分程度ずらしている。 6両編成以上の車両には、西武新宿側から2両目に弱冷房車が設定されているため、設置位置を極力合わせるためである。 西武遊園地駅発の急行は4両編成であるが、これらは全て萩山駅で拝島駅発の6両編成の急行を後部に連結するため、連結後に10両編成の1号車となる4両編成の先頭車両で実施されるものである。 - 西武鉄道• 3 2018年7月17日. 2018年7月18日閲覧。 『都市交通年報』各年度版• - 埼玉県• - 埼玉県• - 埼玉県• 神奈川県 1987年9月. 2015年1月13日時点のよりアーカイブ。 2015年5月10日閲覧。 (デジタルコレクション)• (国立国会図書館デジタルコレクション)• (国立国会図書館デジタルコレクション)• (国立国会図書館デジタルコレクション)• (国立国会図書館デジタルコレクション)• (国立国会図書館デジタルコレクション)• 西武鉄道 2010年12月13日. 2016年6月11日閲覧。 『鉄道ジャーナル』第46巻第8号、、2012年8月、 148頁。 - 東村山市まちづくり部 まちづくり推進課 p. 1、2020年5月6日閲覧。 - 西武鉄道//Nature Innovation Group(2019年09月18日)2019年10月7日閲覧。 - 東村山市まちづくり部 まちづくり推進課、2020年3月4日閲覧。 - 西武鉄道、2012年4月25日閲覧。 - 西武鉄道、2013年2月19日。 『私鉄の車両 6 西武鉄道』。 近藤禎夫・安藤陽 1997. 日本のビッグ・ビジネス19 西武鉄道・. 235p. 電気車研究会刊『』等より• - 乗りものニュース、2019年5月23日• - 東京都建設局、2018年12月18日閲覧。 - 中野区、2019年8月27日閲覧。 - 東京都建設局、2019年8月27日閲覧。 建設工業新聞. 2019年2月15日. 2019年2月15日閲覧。 東京都. 2019年8月27日閲覧。 PDF , 中野区, 2015-03-09 , 2015年3月24日閲覧。 716 2002年4月臨時増刊号 特集・西武鉄道 P. 128-130 2002年4月10日発行 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 箱根ヶ崎-東村山-吉祥寺間として計画された計画線。 高田馬場駅-東村山駅間の母体となった。 東村山駅-本川越駅間が新宿線となった際に支線となった。 当路線を舞台とする作品• - 当路線沿線を舞台とする作品。 - 「」によるの楽曲。 作詞作曲は。 外部リンク [ ]•

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西武新宿線沿線まちづくり 現在までの経緯

西武 新宿 線 踏切 事故

新着情報 【2020年02月25日 06時27分】新宿線は6時04分頃、井荻~上井草駅間での踏切事故の影響により、西武新宿~本川越駅間および拝島線の運転を見合わせています。 運転再開は7時20分頃を見込んでいます。 振替輸送は、JR・【続く】 — 西武鉄道運行情報(公式) seiburailway 【2020年02月25日 06時27分続き】東京メトロ・都営地下鉄・東武鉄道・京王電鉄・多摩モノレールで行っています。 — 西武鉄道運行情報(公式) seiburailway 5時すぎに家に帰り、じいちゃんが亡くなったと起こされ酒抜け切ってない中家を飛び出れば地元で西武線は踏切事故…… — 煮玉子の煮物 nozomi350A This website uses cookies to improve your experience while you navigate through the website. Out of these cookies, the cookies that are categorized as necessary are stored on your browser as they are essential for the working of basic functionalities of the website. We also use third-party cookies that help us analyze and understand how you use this website. These cookies will be stored in your browser only with your consent. You also have the option to opt-out of these cookies. But opting out of some of these cookies may have an effect on your browsing experience. Any cookies that may not be particularly necessary for the website to function and is used specifically to collect user personal data via analytics, ads, other embedded contents are termed as non-necessary cookies. It is mandatory to procure user consent prior to running these cookies on your website.

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西武新宿線(井荻駅~東伏見駅付近)の連続立体交差化について:練馬区公式ホームページ

西武 新宿 線 踏切 事故

事故一覧 [ ] 1950年代 [ ] 湘南電車火災事故 [ ] (昭和25年) 7時41分 - 間において(14両編成)の試運転列車が走行中、13両目のモハ80027のからを発したため、車掌が(車掌弁)を扱い停車したが、その際にが切断されて最後尾のクハ86017に接触。 同車と隣のモハ80027が炎上し焼失した。 原因は強風により飛来してきた導電性の異物がパンタグラフに接触してパンタグラフと車体が短絡したことによるものと推定された。 また、現場近くの変電所が事故電流を検知遮断せず、火災発生後も約25分にわたり送電し続けていたため、消防車からの放水による消火作業ができなかったことが被害を拡大する要因となった。 そのため事故後、通電中の1500架線に対する放水の試験が実施され、水質を考慮し筒口をすることで放水が可能であるとされた。 焼失した車両は2両とも国鉄大井工場にて復旧された。 三関駅暴走事件 [ ] 1950年 構内のポイントの切り替えが行われずに、通過中の貨物列車がに進入して脱線転覆した。 警察は、同年7月13日の時点で乗務員、駅員に過失がなく計画的妨害であったと判断。 7月27日に三関駅の元線路工手を容疑者として逮捕した。 室蘭本線覚生川鉄橋列車脱線転落事故 [ ] 1950年(昭和25年) 22時55分ごろ 室蘭本線 現:錦岡駅 21時25分発行き218列車(11両編成、牽引機)が同駅を1時間11分遅れで発車、駅から約2 km の地点の覚生(オコップ、またはオボップ)川鉄橋に差し掛かったところ橋脚が崩壊し、1両目客車と2両目荷物車は大破して濁流に呑まれ、3両目客車は4両目客車内に車体を半分突っ込み、死者17人、重軽傷者57人、行方不明者12人 を出した。 この218列車は、いわゆる「買い出し列車」だった。 事故の規模の割に死傷者が少ないのは、発車直後に車掌が函館駅以遠に向かう乗客を5両目以降に移動させたため。 約200人を乗せた救援列車が翌日未明に西方の錦多峰川鉄橋に差し掛かったところ、そちらでも橋脚が崩壊したが、こちらは軽傷者2人で済んだ。 参考文献: 堀江敏夫『苫小牧地方鉄道史』苫小牧地方史研究会〈苫小牧地方史研究叢書 第2集〉、1968年、92 - 93頁。 札幌鉄道管理局は、事故の原因として前日までの豪雨で上流部の木造橋が押し流されて鉄橋の橋脚に当たり、三度傾いたところへ列車が進行してきたため脱線転覆したと説明している。 原因として当時によってが切断し木造の車体屋根部と接触、またたく間に燃え広がったものである。 なお、全焼した車両のうちモハ62001は焼損時の姿のままへ譲渡され、またモハ30173は豊川工場でクハ47023に改番のうえ復旧されている。 身延線のトンネルは他の路線と比較して狭小であり、身延線向けに投入された62系電車は、折りたたみ時の高さを低く抑えたパンタグラフを導入していたが、この事故により離線距離が充分確保されていないと判断され、以降折畳高3,960 mm の制約 を受けることになり、同時に身延線を走行する車両に対してパンタグラフ部分を低屋根化する工事が行われている。 また、やなど身延線に投入される車両はパンタグラフ部の屋根高を低く抑えたものとされ、民営化後もは車両新造の際一部の車両 を除き、身延線への入線を考慮した設計(折畳高を低く抑えられるシングルアームパンタグラフの早期導入)を行うなど現在も影響を受けている。 広島電鉄宮島線多重衝突事故 [ ] (昭和25年)8時45分頃 西側の踏切にて、自動車と上り電車が衝突。 電車が脱線したところに下り電車が衝突した(朝日新聞では三重衝突と表現している)。 自動車の運転手1人が死亡、電車の乗員乗客12人が重軽傷。 桜木町事故 [ ] (京浜線桜木町駅電車火災事故、桜木町国電火災、のひとつ) (昭和26年) の電車(、5両編成1271B列車)が、構内で交換工事中に誤って切断され、垂れ下がっていたに接触し、電流のにより炎上。 先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106名、重傷者92名を出す大事故となった。 その当時、京浜線電車に使用していたのの粗悪な構造が死傷者を多くしたとして、の安全対策強化の契機となった。 詳細は「」を参照 日暮里駅構内乗客転落事故 [ ] 1952年(昭和27年) 7時45分 国鉄構内の南跨線橋の10番線に面した羽目板が利用客の重量に耐え切れなくなり破損、数十人が7 m 下の線路に転落した。 折りしも通りかかった浦和行き電車にはねられ8名が死亡、5名が重軽傷を負った。 事故原因は跨線橋(建設)が老朽化していて、さらに破損箇所は将来延長する予定だったため補強がされていなかった こともあるが、当日の未明に上野駅構内で信号所火災が発生して、東北本線の上り列車が日暮里に臨時停車していたことに加え、並行する京浜東北線でも6時56分に車軸が破損するトラブルがあって一時運行を中止していたため、平常以上の乗客で混雑したためでもある。 上野方に急カーブがあり見通しが利かず運転士による発見が遅れたことが被害を拡大した。 大表沢鉄橋脱線転覆事故現場 (昭和30年) 21時5分ころ のの明島川にかかる大表沢鉄橋で、発行き列車(2両編成 モハ14033-クハ18003)が線路上に土砂があるのを発見し、非常ブレーキをかけたが間に合わず、土砂に乗り上げて脱線転覆。 先頭車両は仰向け、後部車両は横倒しとなり大破。 乗客33名のうち5名が死亡。 列車は非常制動を掛けたが間に合わず衝突。 120 mほど走行し停車した。 衝突のショックで大破したトレーラーの荷台に搭載されていた揮発油を原料としたペンキに引火した。 火は編成中3号車に組成されていたスハ32 266に延焼。 さらに機関車と客車4両を全焼、1両を半焼させた。 深夜の事故にもかかわらず、機関士・機関助士・車掌・乗客・周辺住民が連携し後部6両は切り離されて延焼を回避した。 また乗務員による乗客の避難誘導により重傷2名・軽傷31名を出したものの、死亡者は出なかった。 被災車両は大きく損傷したものの、全車廃車とならず以下の修復作業を実施。 EF58 66:で甲修繕を施工。 スハ32 266:でオハ46形に準じた広窓切妻鋼板屋根とした新製構体への載せ替えと台枠改造を施工しオハ35 1314に改番。 スハフ32 257:でスハ32 266と同様の工事を施工しオハフ33 627に改番。 オハ35 342・923・スハ42 63:小倉工場で構体載せ替えを施工したが改番は実施せず原番号で復旧。 関西本線列車脱線水没事故 [ ] 減水で姿を現した客車 (昭和31年)7時20分ごろ - 間を走行中の亀山発湊町行き列車が、金場トンネルを出て150 mほどの地点で土砂崩れに巻き込まれ、客車6両のうち2両目が前後の連結器がはずれ脱線、加太川に転落した。 客車は水没、乗客3名は救助されたが、残りの8名(旅客5名、職員3名)は激流に流され死亡した。 事故当時、台風15号が接近中だった。 参宮線六軒駅列車衝突事故 [ ] 1956年(昭和31年) (当該箇所は現在の)での列車衝突事故。 同駅を通過の予定だった名古屋発鳥羽行き下り機関士が、出発信号機の直前で停止現示を認めて非常制動を執ったが、当該信号機手前に停止できずに突っ込み脱線し、本線上に横転した所に上り列車が進入して上下列車ともに衝撃大破。 死者42名、負傷者94名。 客車上に大破した蒸気機関車が乗り上げて客車内に高温高圧の蒸気が吹き込んだため火傷死傷者が多かった。 「」を参照 常磐線急行「北上」脱線事故 [ ] (昭和32年) 20時20分ごろ - 長塚(現・)間で、発行き下り急行「北上」が陸橋を通過した直後、牽引機関車() と客車5両が脱線転覆。 機関車と客車1両目は横転し、2両目から4両目は「く」の字の状態になり、築堤下の土手に転落した。 機関士と機関助士・乗客1名の計3名が死亡、乗客43名が重軽傷を負った。 原因は、陸橋下を大型トラックが通り抜けようとした際、積荷が橋桁にぶつかり、軌道を歪めたため。 運転手は業務上過失致死傷他の実刑を求刑された。 三重交通北勢線列車脱線事故 [ ] 1957年(昭和32年) 8時10分 (のちに三重電気鉄道、を経て以降は)の(廃駅) - 間にあるS字カーブ(山田川橋梁桑名寄り)で、発(廃駅)行列車(文献 によれば3両編成で、中間車は152、最後尾がサ100形)が速度超過のため脱線転覆。 列車は通学客で満員であり、死者3人、重傷者3人、軽傷者多数(文献 によれば死者2人、重軽傷者172人)を出した。 その後、現場付近はカーブ緩和のため経路変更が行われ、(昭和35年)に完成した。 この事故でバスに乗っていた5年生一行のうち、4名が死亡、38名が重傷、50名が軽傷を負った。 列車側も牽引していた蒸気機関車が転覆し、客車2両が脱線。 事故現場には同級生である卒業生有志により1961年の命日に慰霊碑が建立された。 特急かもめ米軍トレーラー衝突事故 [ ] 1958年(昭和33年) 14時03分 の南岩国 - 岩国間にある菊池踏切で、博多発京都行きの特急「」(10両編成)に米海兵隊所属の米軍人が運転するトレーラートラックが衝突。 トレーラーは50 m引きずられて大破、かもめ側も牽引蒸気機関車()と1両目客車()が脱線し「く」の字状に転覆した。 また後続の客車2両も脱線した。 この事故で特急の乗員乗客43名が重軽傷を負った。 事故原因はトレーラーの運転手の警報無視による。 これは下り貨物列車の通過後、引き続いて上り特急列車が通過する警報が出ていたのを無視して横断を強行したため。 また踏切には遮断棒がなく事故現場が緩やかなカーブであったのも災いした。 牽引機関車は廃車されたが、1両目のナハフ11は復旧された。 名鉄名古屋本線一ツ木駅衝突火災事故 [ ] 1958年(昭和33年) の構内の踏切で、一時停止を怠ったが発行特急に衝突し、積載していたが原因で火災が発生し、車両2両が全焼した。 この事故で列車の乗務員2人が殉職したのを始め、死傷者は36人に上った。 全焼したのはモ3857とク2857で、翌1959年4月に車体を新製して復旧した。 阪急電鉄京都本線バス二重衝突事故 [ ] (昭和34年) 22時50分ごろ (大阪市東淀川区)近くの島頭1番踏切で、踏切警手の遮断機の操作遅れで取り残されたのに上下線の急行電車が衝突し、バスが電車の下敷きとなり大破。 電車運転士は衝撃直前に非常制動を執っており、衝突時の速度は低かったものの、バスの乗務員乗客7人が死亡、上り急行電車の乗客13人が負傷した。 播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故 [ ] 1959年(昭和34年) 4時45分ごろ - 間の真名谷トンネル北側(生野駅より長谷方約4 km)で、発行きの臨時回送上り8630列車(7両編成)が脱線転覆し、蒸気機関車 と前部3両が大破、鉄道管理局機関区所属の機関士と機関助手の2人が即死した。 機関車はトンネル内に頭を突っ込み横転、1両目は崖に乗り上げ、2両目は下腹を見せて転覆、その上に3両目が乗り上げたため、生野 - 間が不通となった。 C54 5も原形を留めぬほど大破し、その後廃車、解体処分された。 この時、機関車は逆向き運転をしており、側からトンネル側壁に衝突したため、運転台は炭水車に押しつぶされた状態になっており、乗務員の遺体収容は凄惨な状態だったという。 原因としては、生野駅手前(側)にある生野トンネル 614. この事故の後、播但線の乗務員に対し、非常用のが支給され、翌年には生野峠越え用補機として、当時最新鋭のディーゼル機関車が配備されることとなった。 現場の線路脇に、遺族らが建立した慰霊碑が残されている(兵庫県神崎郡渕地区)。 外部リンク:() 浜松駅準急「東海」衝突事故 [ ] 1959年(昭和34年) 4時8分ごろ 東海道本線構内に進入した、東京発大垣行き下り準急309T列車「3号」(12両編成)が、同駅に停車していた機関車と衝突。 乗客25名と運転士2名が負傷。 原因は運転士の居眠りによるものとされた。 「東海3号」の先頭車(クハ153-12)は、運転室部に大きな損傷はなかったものの、運転席側の客用扉戸袋窓付近が潰れて、前頭部がお辞儀をしたように車体がした。 に収容された事故車は検証が行われ、衝突時の衝撃が台枠から側構に伝わり、強度的にいちばん弱かった戸袋窓部に集中した結果、車体がお辞儀をしたように変形したものと判明した。 対策として、増備車では側柱部に補強を入れるなどの設計変更を実施し、戸袋窓の補強を行っている。 名鉄名古屋本線大里駅踏切衝突事故 [ ] 1959年(昭和34年)20時ごろ の南側の踏切(遮断機・警報機なし)で、(同年9月26日襲来)の救援物資を積んだが一時停止を怠り、発行特急(6両編成、5003編成 )に衝突した。 列車は大里駅のホームに接触しながら1両目が一回転して線路脇の田に転落、2 - 4両目も脱線した。 この事故で列車の乗客5人およびオート三輪側2人が即死、重傷12人、軽傷18人を出した。 なお43年後の2002年には、現場から約500 m北でが発生している。 京浜急行電鉄花月園前 - 生麦間踏切衝突事故 [ ] 1959年(昭和34年)17時50分ごろ の花月園前駅(現:) - 間にある花月園第3踏切で、立ち往生していたトラックに発行特急が衝突した。 トラックに積まれていた直径約3 cm 、長さ6 - 12 mの鉄筋用の丸棒が、衝突のはずみで1両目の車内に多数突っ込んだ。 この事故で乗客5人が死亡、重傷15人、軽傷13人を出した。 なお同月20日に発生したでも、京急線の乗客に多くの負傷者を出している。 また、当該踏切は既に廃止されている。 1960年代 [ ] 近江鉄道彦根口 - 高宮間正面衝突事故 [ ] (昭和35年) - 間で、走行中のモハ8 が、流転して無人のまま暴走してきたと正面衝突した。 姫新線列車バス衝突事故 [ ] (昭和35年) 8時20分ごろ - 間にある遮断機のない踏切で、姫路発広島行き813列車が、の河内発勝山行きの路線バス(製1950年式)の側面に衝突した。 この事故でバスは中央部がへし折れて吹き飛ばされ、乗員乗客64名中、10名が死亡、54名が重軽傷を負う大惨事になった。 事故の原因はバス運転士の不注意とされた。 小田急線列車衝突転落事故 [ ] (昭和36年) - 間、左岸堤防上にある和泉多摩川2号踏切(事故当時は第3種踏切:踏切遮断機なし、踏切警報機のみ)で、発各停行き下り列車(4両編成)とダンプカーが衝突した。 ダンプカーが警報機鳴動中の踏切を突破しようとしたことが原因とみられている。 この事故でダンプカーは鉄橋上約100 mほど登戸駅側に引きずられ炎上、運転者が死亡した。 一方、列車は先頭車が多摩川の河川敷に転落、2両目は鉄橋から宙吊り、3両目は脱線、4両目(最後尾)は無傷。 運転士1名と乗客約数十名が重軽傷を負った。 この事故後、現場踏切は車両通行止めとなった。 その後事故から40年余りが過ぎた2004年ごろに高架線が完成し、この踏切は廃止された。 急行「日本海」列車脱線事故 [ ] 1961年(昭和36年) 13時45分 - で、大阪発青森行「」が土砂崩壊現場に突入、牽引すると客車2両が脱線した。 人的被害は機関士が軽傷を負った程度であったが、現場復旧作業が優先され破損した車両は2か月以上事故現場に放置。 C57 1はに長野工場(現・)に入場し5か月の期間をかけ修復。 その後もやによる破損など度重なる事故に遭遇するが2018年現在も車籍を有する。 大分交通別大線列車埋没事故 [ ] 1961年(昭和36年) (1972年に全線廃止)で、発行き列車(電車205号)が走行中にトンネルから出た直後にに遭遇し埋没。 電車に乗っていた下校途中の児童・生徒ら31人が死亡し、乗員2人と乗客34人が重軽傷を負った。 当日はの影響で前日からのが続いていた。 山陽本線「さくら」・「あきよし」衝突事故 [ ] 1961年(昭和36年) 山陽本線西宇部(現在の宇部) - 小野田間でによる東京発長崎行き下り寝台特急「」に、2時間57分遅れで運転されていた山口発博多行き準急「」()が追突した。 この事故を機に隔時法は廃止された。 この事故では双方の列車に乗客がいたが、「さくら」「あきよし」で計50名の重軽傷者を出したものの、20系客車の軽量構造が衝撃を吸収し、客室部分の損傷を最小限にとどめ、死者は出さなかった。 この点では軽量車体の優位性を示したといえる。 しかし、当時20系は予備編成が確保されていない状態での運転だったため、付属編成6両が不足する事態となった。 東海駅 急行「いわて」脱線事故 [ ] 1961年(昭和36年) で副本線を通過しようとした上り急行「いわて」(牽引)が脱線大破。 分岐器通過速度を超過し、機関車と客車2両が脱線転覆、他の客車も脱線。 機関助士が死亡、5人が負傷。 この事故以降、副本線を通過する際でも一旦停車するよう規則が改められた。 鹿児島本線基山駅貨物列車脱線事故 [ ] (昭和37年) 21時10分ごろ の3番線から、若い男女がを図り進入してきた下り181貨物列車に飛び込んだ。 2人は即死したが181列車の機関士が非常制動を執ったところ同駅が急角度のカーブであったのが災いし、牽引蒸気機関車が浮き上がり、貨車38両のうち21両が脱線した。 この脱線で運転台から放り出された機関助士が炭水車からこぼれ出た石炭の下敷きになり殉職、機関士ともう1人の機関助士も全身に火傷や骨折する重傷を負った。 常磐線三河島駅列車多重衝突事故 [ ] 1962年(昭和37年) のひとつ。 構内で貨物線から下り本線に合流進入しようとした発行きの下り貨物列車(蒸気機関車牽引)が、停止信号をしてに進入し脱線。 先頭の機関車が下り本線を支障した直後に三河島駅を1分遅れで出発し下り本線を進行してきた上野発取手行きの下り電車と衝突し、脱線した下り電車は上り本線を支障した。 約6分後、さらにその現場に上野行きの上り電車が高速で突入。 上り電車は線路上に避難していた乗客多数を巻き込みながら下り電車に衝突、双方の先頭車両は原形を留めず粉砕され、一部の車両は築堤下へ転落して民家に突っ込み、死者160名を出す大事故になった。 下り貨物列車と下り電車が衝撃した時点での人的被害は小規模だったが、下り電車の乗客が上り線路上へ出てしまったことと、約6分の暇が有りながら事故現場へ接近する上り列車を非常停止させるための防護処置が行われなかったことが更なる事故を招来し、人的被害を大きくしてしまった。 この事故が契機となって ATS やの設置を推進することになった。 詳細は「」を参照 鹿児島本線踏切事故 [ ] (昭和38年) - 間(は未開業)の第1種踏切上で故障して停車していた大型トラックに上り快速列車に充当されていた4両編成が衝突。 脱線して下り線を支障した上り列車に下り普通列車(気動車1両)が衝突し、8名が死亡した。 前年に発生した南武線の踏切事故とほぼ同様の事故で、列車防護の措置をとる間もなく対向列車が衝突した。 東海道本線鶴見列車多重衝突事故 [ ] 1963年(昭和38年) のひとつ。 - 間で、貨物線(現在の・線路)走行中の下りが脱線し、そこに横須賀線の上下旅客列車が進入して三重衝突事故となる。 合わせて死者161名、重軽傷者120名という大事故になった。 調査の結果、が原因だとされた。 詳細は「」を参照 立川駅タンク車衝突事故 [ ] (昭和39年) 7時6分 に1月2日に到着したガソリン満載の米軍専用タンク車(タサ846)と事故当日の朝に到着した貨車を連結するための作業中に、担当者が規則ではタンク車のブレーキをかけるとともに車輪止めを設置することとなっていたが、ブレーキのかけ方が甘くを使用していなかったことによる過失で転動。 作業場所より65 m立川寄りの本線ポイント手前の本線合流ポイント手前に車輪止めがあったがこれをそのまま破壊して青梅線の上り本線上に進入し暴走した。 そして約2Km離れたに停車中だった青梅行き普通電車(電車5両編成)に衝突。 これにより積荷のガソリンが引火して炎上した。 火はまたたく間に近隣の建物にも燃え広がり、タンク車と電車のほか近隣住宅地の8軒11棟のべ1600平方メートルを全焼した。 事故当時、青梅行き普通電車やそのホームには約60名の乗客がいたが、西立川駅からの電話連絡を受けた駅員達がいち早く避難誘導したため死者が出る最悪の事態は免れた。 しかし避難時に乗客2名が転倒するなどして重軽傷を負った。 その後の調査で上記の事故原因が判明し西立川駅の担当者は逮捕された。 京福電鉄電車衝突事故 [ ] 1964年(昭和39年)1月5日 (現・) - 間の貴船口より約200 mの場所で、上り臨時電車(1両)と下り電車(デナ21形2両編成)が正面衝突し、架線を切断してによる火災を発生し、上り電車と下り電車の先頭車が焼失し69名が負傷した。 当日はにおける初寅大祭のため臨時列車を運行していたが、臨時運行の伝達が徹底されなかったこと、下り電車の運転士がを確認しなかったことが主な要因とされた。 上り電車の乗客数は80名でほぼ満員の状態だったが、車掌は衝突して停車後にいち早く自動ドアを開けたため全乗客は線路上に避難でき、衝突の衝撃などで怪我人は出たものの死者の出る最悪の事態は免れた。 また下り電車には20名ほどの乗客がいたが、こちらも怪我人は出たものの全乗員が無事に避難している。 事故の一報は、乗客の1人が貴船口駅まで駆けつけて駅員に事故発生を伝えた。 そして駅員は運行本部、警察、消防に連絡をした。 の消防車8台が現場に駆けつけ消火活動にあたるとともに救急車4台が駆けつけて怪我人を近隣の病院(浜田病院26名、富田病院23名、済生会病院10名、等)へピストン輸送した。 事故現場は鞍馬川のすぐ横の急な崖の上で、もし電車が事故の時に脱線転覆していたならばきわめて重大な事態になることは避けられなかった。 焼失したデナ121・123が廃車となった。 京福電気鉄道では平成に入っても福井支社で半年以内に2回も衝突する事故が起こって運行停止している。 詳しくはを参照のこと。 東海道新幹線モデル線区飛込事故 [ ] 1964年(昭和39年) 10時55分 開業前の綾瀬町(現・)の区で試験走行中の東海道新幹線用車両に男が飛び込んだ。 このため先頭車両先端のが大きくへこみ、2両目の電動発電機、3両目のブレーキ用空気パイプなどが損傷する被害を受けた。 その影響で死体は広範囲に散乱した。 名古屋鉄道新名古屋駅列車追突事故 [ ] 1964年(昭和39年) 9時55分 新名古屋駅(現在の)構内(新岐阜方面ホーム)で、停車中の発行き急行列車(4両編成)に後続の発行き特急列車(4両編成)が追突した。 追突された急行列車は後ろ2両、追突した特急列車は前2両がそれぞれ脱線し、運転席に挟まれた特急列車の運転士と乗客24名が重傷、乗客125名が軽傷を負った。 後続の特急列車の運転士が見込み運転をして停止信号を通過したか、列車のブレーキ故障が原因と見られる。 この事故を受け、名鉄はの導入を決定した。 以降、名鉄で列車同士の追突や正面衝突といった事故は発生していない。 「第一富士」脱線事故 [ ] 1964年(昭和39年) 10時7分ごろ - 間(当時は未開業)を走行中の発行き下り「」が、踏切内のと激突し、先頭から6両目までが脱線した。 この事故ではダンプカーの運転手が死亡し、先頭車両は大破した。 また脱線した車両の多くは数多くの著名人が乗車するであったことから在日代理大使ら10名が重軽傷を負った。 この事故で先頭に組成されていたクロ151-7がとなったが、これは国鉄の廃車第1号でもある。 被災したは同年10月1日の東海道新幹線開業に伴い、九州乗り入れ改造をはじめとする転用計画に着手しており、代替車両を新造する猶予もなく、さらに予備車も皆無に近い深刻な車両不足状態となった。 このため本来は急行列車用のを急遽特急「」に充当したほか、廃車代替として急遽サロ150-3を先頭車化改造して対応した。 も参照のこと 新潟地震による事故 [ ] 1964年(昭和39年) 13時1分ごろ により付近で跨線橋が落下し、直下にあったキハユニ17 2を直撃し車体が潰れた。 回送列車のため乗客は乗っておらず、人的被害はなかったものの同車は復旧困難のため廃車となった。 東海道新幹線保線作業員死傷事故 [ ] 1964年(昭和39年)7時32分ごろ のの線路内で砂利固めをしていた保線作業員10名が、列車見張員の不注意から、発行きの「こだま207号」にはねられ、5名が即死、5名が重軽傷を負った。 現場は田園地帯に土盛りをした直線の見晴らしの良い場所であったが作業員達は砂利を固める機械の音のため近づいてくる新幹線に気付かなかったという。 こだま207号は事故現場から1 km以上も走って停車したため犠牲者の遺体は事故現場から延々と1 km以上にわたり線路に散乱していたという。 新幹線開業から2か月足らずで複数の死傷者を出してしまった国鉄は、この事故により安全対策の見直しを迫られることとなった。 北陸鉄道金沢市内線脱線転覆事故 [ ] (昭和40年) 15時45分ごろ (1967年全線廃止)の発前行電車(309号車)が暴走後、脱線転覆し死者1人、負傷者多数を出した。 状況は、当電車が出羽町停留所発車直後に異常を感じて停止し、乗務員が下車点検したところ、現場が尻垂坂の頂上であったため転動、暴走したもの。 電車はブレーキロッドが折損していた。 乗務員は慌ててレバーを線路上に置いて止めようとしたが、電車はこれを乗り越え、続いて電車に飛び乗ったが、レバーを持っていないためなす術がなく、坂を下った兼六園下停留所付近で脱線転覆した。 対策としてを勾配の大きい路線で使用禁止としたほか、下り勾配での一旦停止などを行った。 急行「赤倉」衝突脱線事故 [ ] 1965年(昭和40年) 9時50分ごろ の - 間の踏切で、発行の急行「」がコンクリートミキサー車と衝突、12両編成中10両が脱線し、2両が築堤から転落した。 死傷者16名を出した。 大阪市電・タンクローリー衝突事故 [ ] (昭和41年) 夕方 が津守町東6丁目を乗客約70名を乗せて走行中、センターラインを越えて対向して来たタンクローリー車と衝突。 この衝撃で市電は右前方の車体が大きくえぐられ、何人かの乗客はえぐられた部分から外へ放り出されるなどした。 この事故により市電の乗客3名が死亡、タンクローリー車の運転手と市電の乗客27名が重軽傷を負った。 タンクローリー車はワイパーが故障した状態で、事故原因は夕闇と折からの降雨の中で前方の視界がほとんどきかないにもかかわらず、強引に前方の車を追い越そうとして市電の軌道内に入り込んだもので、運転手はその場で現行犯逮捕された。 南海電鉄高野線置石脱線事故 [ ] 1966年(昭和41年) 20時25分ごろ 大阪府堺市香ヶ丘町の - 間の橋梁南詰付近で、発行き直行電車(4両編成)が線路上に置かれた重さ約20 kg の石に乗り上げ、1両目が脱線し、架線の鉄柱に衝突した。 電車には約200人が乗車して満員状態だったが、この事故で乗客など十数人が負傷した。 新幹線ひかり号車軸折損事故 [ ] 1966年(昭和41年) 19時ごろ を東京にむけて出発した「42号」(18時00分発・0系12両編成)が、熱田付近の曲線を走行中の最後尾の台車から異常振動と火花を出していることをが視認した。 その後異常なく走行していたが、豊川橋梁付近のカーブ 2500 で再び異常振動と火花を出しているのを車掌が視認したため、運転士に通報し非常ブレーキをかけ通過予定駅のを400 m行過ぎた地点で停止した。 ここで職員が降りて確認したところ後部車両の台車の第二軸に異常があり、中央列車指令の指示で「ひかり42号」を豊橋駅の第2副本線に退行して入線し、後続の「ひかり44号」「ひかり46号」「ひかり48号」「ひかり54号」の計4本を臨時停車させて42号の乗客を代替輸送した。 事故自体は人的被害が出なかったため、大きく報道されなかったが、故障車両を搬送機器に載せて浜松工場に回送後に行われた検査で、車軸が折損しており、かろうじて駆動装置と軸箱に支えられていたという相当深刻な事態であったことが判明した。 そのため折損した車軸が軸箱に引っかかっていなければ、名古屋駅を発車した直後に脱線転覆した可能性があった上に、車掌が異常に気付かず豊橋駅で停止していなければ、やはり高速運転中の急カーブで同様の惨事が起きていた可能性があったという。 車軸折損の原因であるが、鉄研・金属材料研究所での検査の結果、メーカーの製造段階で高周波焼入れ中に停電があったため、材質に欠陥があり金属疲労を引き起こしたというものであった。 事故対策として一層の品質管理と検査の徹底が行われることになった。 京阪電鉄蒲生信号所列車衝突事故 [ ] 1966年(昭和41年) 大阪市城東区の(現在は廃止)構内のの緩行線(B線、外側線)と急行線(A線、内側線)との合流ポイント付近で、緩行線から急行線側に進行中の下り普通列車の側面に、急行線を併走中の下り急行が信号冒進して衝突。 普通列車の先頭車両はその衝撃で上り線側に飛び出し、信号所の建物に突っ込み、上り線路を支障した。 乗客など51名が重軽傷を負った。 現場には上り区間急行列車が接近していたが、信号所の助役が負傷しながらも下り方向へ走り上り列車に対して列車防護を行った(停止信号を出した)。 区間急行の運転士はこれに気付き非常ブレーキを作動させ、現場手前で停車し、二次衝突を避けることができた。 原因は急行運転士の過労とされた。 この事故を契機に京阪はの導入に踏み切った。 東武伊勢崎線バス衝突事故 [ ] (昭和41年) 埼玉県のより北約120 m離れた赤山踏切において、越谷駅行きに日光発浅草行き特急けごんが衝突、バスは約135 m、越谷駅ホームまで引きずられ大破、列車も最後尾の1両を残して脱線した。 この事故によりバス乗客ら4名が死亡、乗客ら12名が負傷した。 事故時、踏切付近は渋滞しており、バスが渡り始めた際に対向から小型トラックが来てバスが踏切内で立ち往生し、そこに列車が衝突した。 この当時越谷駅周辺は沿線の開発により、交通量が急増。 踏切内の線形の悪さも加わり事故に至った。 1か月後、同様事故を防止するため、近隣の2つの踏切を含め、踏切内を拡幅した。 近鉄河内国分駅列車追突事故 [ ] (昭和41年) 大阪府ので、待避中の上本町(現在の)発行き準急()に上本町発行き特急(、「旧ビスタカー」)が追突、特急列車の運転士が死亡、43名が重軽傷を負った。 特急列車運転士の信号見落としが原因であった。 この事故で損傷した宇治山田方先頭車のモ10007は流線型の前頭形状をやめてに準じた貫通型で翌に復旧したが、4年後のには廃車された。 東武西新井駅列車衝突事故 [ ] (昭和41年) の電車()と東武線乗り入れの(現:)の電車()が、と大師線の分岐駅である構内で衝突。 乗客らが7名死亡、重軽傷者は20名以上となった。 西新井駅の構内配線について、大師線発着が伊勢崎線を横断する形となっていたことが問題とされた。 また大師線が日ごろから新任運転士の、いわば実習線とされていたことも報道された。 営団3000系の事故編成は中間車1両を同じ番号で代替新造の上、運用に復帰した。 南海電鉄男里川橋梁列車脱線転落事故 [ ] (昭和42年) 大阪府泉南町(現・)の「9号踏切」で、発行き下り急行電車(5両編成)が、大型車に対する通行規制はないものの狭い同踏切に進入しエンストした大型トラックの立ち往生 に気付き非常ブレーキをかけたものの間に合わず衝突し脱線転覆。 男里川橋梁から1・2両目が5m下の男里川の河原に転落し乗客5名が死亡 、208名が重軽傷を負った。 事故後に運転士が自分の長男を乗務員室内に入れて運転を行っていた上に、非常ブレーキ操作後に乗客を避難させることを優先せずに、長男を抱いて乗務員室から脱出したことが発覚したため、同社の安全に対する姿勢が問われる結果となった。 当時、子供に気を取られたのではないかとしていた報道もあった。 脱線・転覆したタンク車から漏れた航空燃料に引火し、機関車とタンク車3両が炎上した。 この事故で死傷者は出なかったものの、激しい火災の消火と、炎上を免れたタンク車からの燃料の抜き取り作業や復旧作業に手間取ったことから復旧が遅れ、中央線は丸1日ストップした。 詳細は「」を参照 急行安芸食堂車全焼事故 [ ] 1967年(昭和42年) 1時30分ごろ、をからに向けて走行中の急行「」(14両編成)の6両目に連結されていた食堂車()の進行方向後部から出火。 火災発生後に急行は現場に急停車し乗務員により食堂車部分の切り離し作業が行われた。 この食堂車はそのまま炎上し2時50分ごろに鎮火した。 出火した時刻が深夜だったこともあり、食堂車に乗客はいなかったが、鎮火後この食堂車の中からの調理助手の男性と接客係の女性が死亡しているのが発見された。 石炭レンジの過熱が原因とされた。 南海電鉄天下茶屋駅列車衝突事故 [ ] (昭和43年)1月18日 17時17分ごろ、の発行き臨時急行電車(11001系5両編成)がホーム通過後、停止信号を無視して進行、別方向に開通していたを割り出し、その先の分岐器から分岐側に進入して、出発待機していた電車(2両編成)に正面衝突した。 急行の前頭2両と回送の前頭1両が脱線し、急行電車の旅客と双方の乗務員合わせて296名が負傷した。 直接原因は、急行運転士の信号無視と制動操作の誤りとされたが、・(のほか、1974年までがあった)の観戦客輸送で急行通過が10分程度遅れていたことを理由として、回送電車の出発を優先して急行に停止信号を出した駅員の運転取扱いも問題とされた。 南海電鉄は前年4月のと7月の構内列車衝突事故に続き、1年以内に重大事故を3度も引き起こしたため(これらは「南海3大事故」と呼ばれており、同社の安全報告書にもその記述がある)、この事故を重くみた近畿陸運局(現・近畿運輸局)は南海に警告書を出し、また同業他社および各方面からもその体質を厳しく批判されることとなった。 営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故 [ ] 1968年(昭和43年) (現)付近で、中の(6両編成)の3両目の主付近から出火して火災を起こし、1両が全焼、1両が半焼した。 事故列車は、で主抵抗器が赤熱して付近から発煙していることが見つかったために営業を打ち切って乗客を降ろし、の側線へ向けて回送中だったので幸いにして乗客の被害は発生しなかったが、火災発生が駅と駅の中間だったために消火に手間取り、乗務員やら11人が負傷した。 なお、全焼した車両は車体・機器ともすべて造り直され修理扱いで復帰した。 火災の原因は、主抵抗器が過電流により過熱して、上部にある製から出火し延焼したものとされた。 この事故の1時間ほど前、この編成が行きとして運行中にの進段トラブルが発生し、その際3両目を含む第2開放の処置を行ったが、3両目の主制御器は並列段の進段途中で停止したままになっており、への折り返し運転時に運転士が転換器を操作しても(ユニットが開放されているため)極性が転換せず、走行中は常時がかかっている状態となっていたのが主抵抗器過熱の原因である。 この事故で、当時のの最高ランクだったA-A様式に該当する車両が1両全焼したことは可燃性の車両部品の使用を見直すきっかけとなり、事態を深刻と見た(当時。 現在の)は営団での実車燃焼実験などを含む抜本的検討を行い、翌(昭和44年)5月に従来の通達に代わる「電車の火災事故対策について」を通達することによって新たな耐火基準(いわゆるA-A基準)を定め、火災事故対策を強化した。 この基準は世界的に見ても厳格なもので、以後の鉄道火災事故防止に貢献している。 上越線群馬総社駅構内列車衝突事故 [ ] 1968年(昭和43年)4月19日12時45分 構内で発行きの上り6両編成電車が引き込み線に停車していた41両編成の貨物列車に衝突。 この事故で乗員乗客約240名のうち69名が負傷。 事故原因は当日駅構内のポイント工事中で手信号による列車誘導をしていたが、工事前にポイントを間違って切っていたため。 阪急電鉄甲陽線ホーム激突事故 [ ] 1968年(昭和43年)6月5日7時40分 に到着した2両編成の電車が停止しきれずに車止めを乗り越えて神戸線ホームに激突。 この事故で電車の乗客が将棋倒しになったうえに、神戸線ホームにいた乗客は衝撃で吹き飛ばされたり破片を受けたりしたことから35名が負傷。 伊豆急行川奈駅構内列車接触事故 [ ] 1968年(昭和43年)6月18日10時30分 構内でホームに入ろうとしていた熱海発行き下り7両編成電車の3両目に、約70メートル行き過ぎた伊豆急行の伊豆急下田発伊東行きの上り3両編成電車が接触して傾いた。 60名が負傷。 事故原因は上り電車の運転士が居眠りし、信号の停止指示を無視して発車したことであるが、同運転士は事故前夜同僚と従業員寮で明け方4時まで徹夜をし7時に出勤するまでほとんど寝ていなかったことが判明、逮捕起訴された。 また伊豆急行では単線でほぼ全駅で列車を交換するダイヤであったが、ATSが未装備だった。 そのため、早期のATS設置が決定した。 急行「おき」機関車脱線転覆事故 [ ] 1968年(昭和43年)6月28日3時40分ごろ 構内で大阪発大社行き下り急行701列車「」を牽引中だったディーゼル機関車が、場内信号機あたりを通過中に異常音に気付きブレーキをかけたが、推進軸()が破損し、垂れ下がった推進軸が線路に突き刺さり機関車は脱線転覆、続く客車6両が脱線する、いわゆる「棒高跳び事故」を起こした。 いちはやく異常に気付き減速し、速度が低かったことから機関助手と荷物車掌が負傷したが、乗客人命の被害は無かった。 事故車となったDD54 2は修理され現役復帰したが、DD54形ディーゼル機関車のエンジン本体や液体変速機の故障が多発し、推進軸が折れる事故が多発した結果、1966年にDD54 1が落成したばかりにもかかわらず、1978年までに全車退役し廃車となった。 御茶ノ水駅電車追突事故 [ ] 1968年(昭和43年)7月16日22時38分 中央本線・で停車中の行き2239F電車(10両編成)に、後続の行き2201F電車が追突した。 双方の電車とも5両ずつが脱線した。 負傷者210名()。 事故原因は2239F電車の乗客がドアに手を挟まれていたことから、発車した直後に非常停止の措置をとってホーム半ばに止まったところへ、後続2201F電車運転士の見込み運転による制限速度オーバーとブレーキ操作遅れによって追突したという人的ミスとされた。 相模鉄道瀬谷駅構内列車衝突事故 [ ] 1968年(昭和43年)8月17日11時45分 構内で、貨物列車を牽引するために入れ替え作業中であった電気機関車に、発行きの4両編成電車が追突。 83名負傷。 事故原因は、追突した電車の運転士がをして信号の停止現示を見落としたため。 なお、当時同線にはATSが設置されていなかった。 豊橋鉄道老津駅構内列車衝突事故 [ ] 1968年(昭和43年)8月26日19時30分 構内で発行きの2両編成の下り電車が、貨物引き込み線に突入し貨物列車(10両編成)に追突。 はずみで貨車2両が脱線し、残りの貨車は車止めを突き破り駅の待合室の壁に衝突。 乗員乗客58名が負傷した。 事故原因は駅務掛の手動信号の操作ミス。 急行かむい1号脱線事故 [ ] 1968年(昭和43年)10月12日9時20分 に停車予定だった下り急行813D「1号」が、運転士が停車予定を失念したため通過。 駅構内の手動踏切を横断していたダンプカーと衝突し8両編成中3両目までが脱線し、衝突地点から170 m離れた奈井江川にかかる鉄橋でようやくとまった。 乗員乗客約400名のうち、ダンプカーの運転手など29名が負傷した。 事故は運転士が停車を失念していたことが引き金であったが、奈井江駅の助役が停止合図の赤旗をホームで振っているのを無視した上に、踏切が駅を出発する列車の汽笛を合図に手動で閉めることになっていたため、ダンプカーの横断を止めることができなかったことが、事故の原因となった。 京阪電鉄京津線電車脱線事故 [ ] 1968年(昭和43年)11月22日5時15分 で、発行きの始発電車が三条通白川橋東4丁目で敷石が浮き上がっていたため急停車しようとしたが間に合わず、敷石に乗り上げて脱線。 旧を横切ってを突き破り民家の壁に衝突した。 乗客2名が負傷。 停車寸前の速度であったため民家を破壊するまで至らなかった。 籠原電車区構内脱線事故 [ ] 1968年(昭和43年)11月23日5時40分ごろ 籠原電車区(現・籠原派出)で発行き普通列車に充当する所属165系10両編成が出区線から移動中にポイントが切り替わったため8・9両目が脱線した。 回送状態であったために乗客に死傷者はない。 原因は運転士の確認不足と事後対応のミスによるものである。 まず当該編成が入線する予定だった籠原駅2番ホームには別の列車が在線していたため出区線の信号が赤であったことを見落とし発車。 続いてポイントが同駅下り4番ホームに向って開いていたことも通過後に気が付いて停止。 さらに無断退行したものの今度は後退中に2番ホームの列車が発車したため9両目通過中にポイントが自動的に切り替わったことから9両目と8両目が泣き別れ脱線した。 9両目のサロ165-24は架線柱2本に接触し倒壊させたため架線を切断、さらに車体が「く」の字に折れ曲がったことから修復困難となり1969年5月8日付で廃車。 なおサロ165形で非冷房のまま廃車になったのは当車のみである。 山陽電鉄中八木 - 江井ヶ島間列車衝突事故 [ ] 1968年(昭和43年)11月23日18時20分 の下り行き普通電車(3両編成)がを誤って通過し、次の近くまで1. 5 kmオーバーランした。 運転士は通過した中八木駅に戻るために電車を逆走させたが、中八木駅西方650 m地点で後続の行き普通電車(2両編成)と正面衝突した。 この事故で後続電車の運転士が運転室で押し潰され殉職し乗客ら72名が負傷した。 先行電車の運転士が考え事をしていて停車駅を誤通過した上、自身3度目の停車駅誤通過であったことから処分を恐れ、後続列車が来ないと思い込み後退したことが原因であった。 なお、本事故で被災した車両のうち、253が翌(昭和44年)に廃車となっている。 十和田観光電鉄正面衝突事故 [ ] 1968年(昭和43年)12月29日15時10分ごろ (2012年で廃線)を出発した上り2両電車が七百で正面衝突し18人名が負傷した。 事故原因はのために線路に突っ込んでいたトラックがあったため、上り電車は三本木駅からの指示により停車していたが、そのトラックが自力で脱出したことから、車掌が三本木駅に連絡せず独断で運行を再開した。 そのことを知らない三本木駅はダイヤではで上下の電車を交換するところをに変更する指示を下り電車に与えたため、正面衝突した。 後日、連絡を怠った車掌が逮捕された。 紀勢本線 名古屋発天王寺行き921列車事故 [ ] 1969年(昭和44年)1月24日 付近において、名古屋発天王寺行き921列車を牽引していたディーゼル機関車が脱線し、7 m下の水田に落ちて転覆。 機関車から切り離されたことで客車には非常ブレーキがかかり、奇跡的に紀伊日置駅ホームに停車した。 伯備線保線作業員死傷事故 [ ] (昭和44年)14時18分ごろ () の国鉄の - (当時は未設置)の単線区間、上石見駅から700 m離れた内で作業中だった国鉄米子保線区の作業員が発行きの臨時普通ディーゼル列車943Dに接触し、作業員6人が死亡した。 事故当時、臨時普通列車は濃霧で29分遅れていた。 作業責任者が上石見駅の助役に問い合わせたところ「下り列車が遅れているので、行き違い駅を変更し、先に上り貨物列車がそちらを通過する」と回答したため、上り列車を警戒していた。 しかし、数分後所定どおりの行き違い駅で列車交換することになり、実際には下り列車が現場を通過することになったことにより、事故が発生した。 駅の助役が再度の変更を連絡しなかったのだが、当時の業務規定では駅から現場の保線要員に連絡する義務が無かったこと、また当時の工事用携帯電話は500 m置きに設置された電柱のジャックボックスに接続する必要があったため、現場のジャンクションボックスと作業場所が離れていた場合は駅から発信しても現場保安要員が着信に気付かない可能性もあった。 そのうえ、上石見駅では臨時普通列車の運転士に保線工事中である旨を注意喚起しなかったうえ、現場が下り勾配のカーブで、運転士が視認したときには30 mの先であったため、減速することができなかった。 また保線要員側も下り列車に警戒していなかったため、待避が間に合わなかった。 国鉄はこれらの教訓から列車接近警報装置の設置などの安全対策が図られた。 また現場近くに「触車防止地蔵」という慰霊碑が建立されている。 なお、同線では2006年1月にも同様の接触事故が発生しており、この時には3人が死亡している。 も参照 近鉄伊勢中川駅構内列車脱線事故 [ ] 1969年(昭和44年)8月5日22時30分ごろ 構内(大阪線から中川短絡線が分岐する地点)で発行き特急が脱線、4両編成のうち2両が4 m下の畑に転落した。 乗客ら61名負傷。 製造から日の浅い2両が廃車となった。 事故原因は車輪のに欠陥があり、ポイントに引っかかって脱線したとされた。 対策として、現場の8番分岐器を12番分岐器に交換した。 なお当時は現場と伊勢中川駅のホーム間は単線であり、複線化されたのは1973年のことである。 急行「よしの川」脱線事故 [ ] 1969年(昭和44年)10月19日 発行き急行「」4号(気動車2両編成)が、付近にある踏切で警報を無視して突っ込んできたダンプカーと衝突。 ダンプカーは下浦駅のホームに吹き飛んだ上に、急行の1両目が脱線し近くの食料品店を営んでいる民家に飛び込んだ。 この事故で急行の運転助士が民家と車両に挟まれ殉職。 ダンプカーの運転手や乗客ら22人が負傷。 このため1両目および2両目の気動車が全軸脱線し、1両目は運転室が大破し、進行右側に横転し停車した。 当該列車には乗客約70名が乗車していたが、この事故により運転士1名が死亡、乗客17名、乗員2名が負傷した。 その後吹田から操重車を迎え、30日17時20分に開通。 この事故でが廃車となった。 寝台特急日本海北陸トンネル列車火災事故 [ ] 1969年(昭和44年)12月6日 6時20分ごろ 北陸本線敦賀 - 今庄間の内を走行中の青森発大阪行き寝台特急「」の最前部電源車から火災が発生した。 当時の国鉄の規則では「火災が起きた場合は速やかに列車を停止させなければならない」と定められていたが、当該列車の機関士は「トンネル内での停車は危険」と判断し、あえて規定に従わずに走行を続け、トンネルを脱出後に非常停車して、消防車の協力を得て消火作業を行い、火元車両焼損のみで鎮火した。 この運転士の判断は乗客の安全を守るために機転を利かせたものとして好意的に報道された。 これに対し国鉄は、出火を認識しながら直ちに停止しなかった機関士の行為は運転規則に違反するものとして断罪し、運転業務から外した。 また、この事故から教訓を得ず、出火時には直ちに停車させる規定を維持した。 この火災から3年後、「」によるでは乗務員が規則通りにトンネル内で停車させて消火にあたったが鎮火することができずに多くの死傷者を出した。 事故後に実車を用いた火災実験等を経て「トンネル内で火災が発生した場合には走行を続けてトンネル脱出後に停止する」と規定を改めるとともに、「日本海」の機関士に下された処分も撤回した。 東武伊勢崎線多々良 - 館林間踏切事故 [ ] 1969年(昭和44年)12月9日 8時13分 伊勢崎発浅草行き準急列車が、伊勢崎線 - 間にある309号踏切にて、警報を無視して進入してきた大型クレーン車と衝突。 死者7人、負傷者101人を出す大惨事となった。 東武鉄道は、1971年(昭和46年)9月14日にを設置し、踏切は廃止された。 この事故で大破したクハ8139は、1970年(昭和45年)4月に修繕扱いで車体新製された。 東武鉄道はこの事故を『館林事故』と命名している。 旅客4名、ミキサー車運転者1名の計5名が死亡し、旅客29名が負傷した。 外部リンク: 房総西線保田 - 浜金谷間急行「うち房」脱線転覆事故 [ ] 1970年(昭和45年)7月1日 房総西線(現・内房線) - 間の鋸山トンネル千葉寄り出口付近で事故前日から当日未明に掛けて降った集中豪雨により土砂崩れが発生した。 そこに乗客約300人を載せた7両編成の発行き急行「うち房」上り2号(当該区間では普通列車)が乗り上げ先頭から3両が脱線。 さらに先頭のクハ165-202は転覆し右側の天王川河原窪地に転落。 乗客4人が軽傷を負った。 搬出時に車体を2つに切断したため復旧困難となり同年8月13日付で廃車となった。 同車は1969年6月に落成したばかりで、落成後わずか1年3か月での廃車は「国鉄で最も短命な電車」とされている。 尻内駅特急はつかり脱線事故 [ ] 1970年(昭和45年)8月12日 (現:)尻内駅(現:)で、発行き下り特急「2号」(電車13両)が尻内駅構内を通過中に前6両が脱線し、一部の車両はホームに乗り上げたのち横転した。 この事故で乗客30名が重軽傷を負った。 原因はポイントの切り替えケーブルが腐食し、ポイントに異常電流が流れてポイントが切り替わったため。 脱線した車両は修理して運用に復帰している。 東武伊勢崎線花崎駅踏切衝突事故 [ ] 1970年(昭和45年)20時17分 - 間(花崎駅東側)のと交差する207号踏切で大型と浅草発伊勢崎行き準急列車が衝突、5名が死亡し、173名が負傷した。 この事故によりの1編成2両(モハ7808 - クハ808)が大破し、とされた。 東武鉄道では唯一の事例となる踏切事故による事故廃車である。 東武鉄道ではこの事故を「花崎事故」と命名している。 湯前線多良木 - 東免田間列車衝突事故 [ ] 1970年(昭和45年)11月15日 (現・)から逸走した貨車2両が、下り場内信号機の外方170 m付近に停止中であった気第623D列車に衝突し、旅客111名(重傷1名、軽傷110名)と、気動車運転士1名が負傷した事故。 貨第371列車(10両)の牽引機関車は、定時に湯前駅1番線に到着し、貨車6両を持って安全側線に引き上げ、3番線に留置中の貨車14両に連結した。 しかし、多良木駅方の貨車2両(コトラ41426号積車、コトラ45402号積車)が転動し、31号転轍機を割出し、逸走した。 入換監視中の当務駅長は、貨車2両が51号転轍機付近を転動中であることに気づき追走したが、これに及ばず、貨車が本線に逸走したため、駅本屋に戻り、多良木駅に通報し、逸走した貨物2両の停止手配方を依頼した。 通報を受けた多良木駅当務駅長は、接近中の気第623D列車に対して下り場内信号機に停止信号を現示させ、逸走中の貨車2両の進路を2番線に構成しようとしたが間に合わず、貨車2両は、時速約60kmで多良木駅1番線を通過した。 そして駅下り場内信号機の外方170 m付近に停止中であった気第623D列車に衝突し、停止した。 原因は、湯前駅3番線に留置中であった貨車14両のうち多良木駅方から2両目と3両目の貨車間の連結器が連結されていなかったこと、多良木駅方から1両目の車側ブレーキを緩解したこと、3番線の鉄製車輪止めを早期に解放したこと、貨車の逸走したことの通報が遅延したことである。 すでに車両逸走事故の対策としては、1968年4月5日の函館本線野幌駅で発生した故障のため解放した気動車が逸走した事故、1969年11月28日の士幌線士幌駅で発生した入換中に不連結の貨車7両が逸走した事故により、車両逸走のおそれのある駅を要注駅として鉄道管理局長が指定し、車両の留置方、入換作業方法、転動時の停止手配などについて再指導を行い、車両逸走の注意を促す逸走注意警標を設置する、木製車輪止めより性能のすぐれた鉄製車輪止めが開発されたため車両逸走のおそれのある留置線に設置するという対策がとられた。 しかし湯前駅で発生した事故にかんがみ車両逸走事故防止対策が見直され、車両が逸走してくるおそれのある駅を隣接駅として要注駅から逸走してきた車両が到達する時分、進入速度を予測計算し具体的な停止手配の方法を検討し、通報、停止手配訓練を春と秋との年2回実施するという対策が追加された。 逸走車両に対する停止手配器材は、ヘムシュー、砂袋、布団、畳、枕木などを整備してきたが、停止手配訓練を実施したところ、ヘムシューを除いて停止効果がほとんどなく、時速30km以上の高速度における停止効果が認められなかったため、新しい有効な停止手配器材の開発を行うこととなり、北海道総局の実験線における効果の確認などを経て1972年1月、新しい停止手配器材()が開発され、順次整備された。 40人負傷。 急行列車の機関士がからし居眠り運転、惰性走行中に上り勾配に差し掛かったため、自然停車して後退したもの。 富士急行列車脱線転覆事故 [ ] 1971年(昭和46年)8時25分ごろ の富士吉田駅(現:)方踏切(緑ケ丘第二踏切。 大月駅起点21. 990 km。 車両の下に引きずり込まれたトラックが空気溜めを破損したためブレーキが全く使えなくなり、電車は逸走し約4 kmを暴走。 乗客約120名のうち17名が死亡、69名が負傷した。 トラック側2名が負傷した。 この事故後、などの対策が採られるようになった。 また、代替にが投入されたが、同社ではこの事故以降、車両番号の末尾がである「4」および「9」の車両は存在しない(例:のちに登場したのうち、1204 - 1304は欠番)。 2両固定編成のの場合、本来「4」と編成される「3」、および「9」と編成される「0」の車両も存在しない。 事故現場付近には慰霊碑が建てられている。 土佐電気鉄道鴨部正面衝突事故 [ ] 1971年(昭和46年) (現:)の鏡川橋南詰 - 鴨部のカーブで、伊野発知寄町行き電車(203号)が手前の交換所で待避待ち(タブレット交換)をせずに進行し、知寄町発伊野行き電車(同205号)と正面衝突した。 衝突後203はさらに、衝撃でブレーキが損壊し、下り坂を逆行、後方のダンプトラックとも衝突した。 重軽傷66名。 事故車のうち203は廃車。 205は修理され運用に復帰した。 鏡川橋 - 鴨部市場前間は、同年中に特殊単線自動閉塞式の信号方式に変更されている。 札幌市営地下鉄南北線脱線事故 [ ] 1971年(昭和46年) 午後1時ごろ 開業前ので、を発車した乗務員訓練用の列車(4両編成)が、切り替え途中で案内軌条が途切れたポイント部に進入。 前方2両が脱線しシェルターへ激突した。 列車には見習い運転士と指導運転士の2名が乗務していたほか、国鉄関係者5名を含む28名が試乗していて、運転士2名と、試乗客3名が打撲などの負傷。 車両の前頭部とシェルターが大破した。 ATCは工事中のため未使用で、運転士は本来必要な指令所の指示を待たずに列車を発車させていた。 当時、完成検査を受ける前だったが、同年1月ごろから市民などを頻繁に試乗させていて、北海道運輸局から関係者以外を乗せないよう何度も指導されていた最中の事故であった。 は事故発生当初、試乗客の存在を明かさず、負傷者は運転士2名だけと発表していたが、翌日になって報道機関からの指摘で虚偽が発覚。 現場職員が試乗客の報告を怠っていたことが判り、隠蔽体質が問題視された。 事故の影響で乗務員訓練は1週間中断され、再開後は試乗を取り止めた。 近鉄特急衝突事故 [ ] 1971年(昭和46年) - 間の総谷トンネル内で、上本町(現在の)発行き特急電車(4両編成:)と発近鉄難波(現在の)・行きの特急電車(7両編成:・・)が正面衝突した。 死者25名、重軽傷者218名。 事故発生場所がトンネル内だったため、復旧まで長期間を要した。 ATSの誤作動で名古屋行き列車に作用した非常ブレーキを緩解するため供給コックを閉鎖して緩解したことにより、その後ブレーキが作用不能となったのにも関わらず発車したために下り勾配でブレーキをかけられずに停止信号を突破したもの。 詳細は「」を参照 船橋駅構内追突事故 [ ] (昭和47年) 午前7時21分ごろ で駅構内の信号機トラブルにより停車中の緩行線上り613C列車(中野行き、10両編成)に、後続の緩行線上り711C列車(三鷹行き、101系10両編成)が追突し、711Cの6両目が脱線し、758名が負傷した。 死者は出なかったものの、朝の通勤時間帯で乗客が非常に多かったため、日本の鉄道事故としては被害者数が最悪の事故となった。 事故発生の直前、蕨変電所の送電線が断線したことにより信号系が停電し、そのため先行の緩行列車は船橋駅に停車中だった。 信号系の停電で閉塞信号機、および場内信号機が消灯していて、通常であれば後続列車もこれを確認して直ちに停止の手配が取られるところだったが、太陽の直射に幻惑されて消灯との判断ができず、後続列車の運転士は信号系停電時にATS-B型の警報が確認ボタンを押しても鳴り止まないことを知らなかったため、鳴り止まないATS警報に気を取られて故障ではないかとATSスイッチを操作しているうちに、ブレーキ操作が遅れて追突したものである(信号機消灯は停止現示とみなして直ちに停止するよう規定で定められている)。 急行「阿蘇」郵便車炎上事故 [ ] 1972年(昭和47年) 午前0時50分ごろ 名古屋発熊本行きの急行「」が山陽本線 - 間を走行中、機関車の次位に連結していたから出火。 吉永駅に臨時停車し客車と郵便車との連結を外し400 m引き離して消火活動をした。 幸い負傷者はいなかったが郵便車は全焼。 郵便物1万数千通が焼失し現金書留など一億円以上の損失が出た。 当初は煙草の不始末が原因とみては捜査をしたが、当時名古屋鉄道管理局勤務で事故の対応をしたの著作 によれば、郵便車の蒸気暖房管の周囲にある木材が摂氏160度程度の温度で長時間暖められ蓄熱し、やがて発火に至る低温発火現象 が事故車両で発生したとされ、非常に希な現象であるため火災責任はないとして不起訴処分になったという。 日暮里駅構内追突事故 [ ] 1972年(昭和47年)13時59分ごろ 北行第1332C電車(発行き:10両編成)がで客扱いを終了し、2分遅れで発車したところ運転台の戸閉表示灯が消灯したためブレーキを掛け、約90 m進んだ所で停止した。 一方で、後続の内回り第1370電車(103系10両編成)の運転士は(当時は線路保守のため、データイムは - 間で山手線と京浜東北線が同じ線路を走行していた。 この運転方式は現在でもリフレッシュ工事と称される工事が行われる際に見られる)、一つ手前のを1分遅れで発車し日暮里駅に進入しようとする際、先行列車がホーム中央部分に停車しているのに気付き、非常ブレーキを掛けたが間に合わずに追突し、143名が負傷した。 原因は山手線の運転士が場内信号機の制限速度を超過して運転したためで、この事故をきっかけに信号保安機器の検討がなされ、京浜東北線・山手線の化が決定されることになった。 しかし車両面での準備が遅れたため、実施はまで待たねばならなかった。 追突されたクハ103-544、追突したクハ103-111は数年後復帰したが、ATC化のために転出し、で長らく顔を合わせることになる。 繁藤駅列車土砂崩れ転落事故 [ ] 1972年(昭和47年) 午前10時50分 梅雨末期の集中豪雨により、近くの追廻山が土砂崩れを起こし、駅構内に土砂が流入した。 列車はすでにバスに振替輸送をしていたが、車内に数人の乗客がおり2人が救出された以外は行方不明となった。 また、同日朝に付近で発生した小規模の土砂崩れによって行方不明になった消防団員1人の救出作業にあたっていた町の職員や消防団員、国鉄職員らも巻き込まれ、合わせて59人 が犠牲になった(繁藤災害)。 詳細は「」を参照 北陸線北陸トンネル列車火災事故 [ ] 1972年(昭和47年) 北陸本線内を走行中だった、大阪発青森行き客車急行列車「」の11号車()喫煙室椅子下から火災が発生し、列車が当時の規則に基づいてトンネル内で停車した。 しかし、密閉された空間であるトンネル内だったことから、乗客・乗務員の多くが中毒にかかり、30名が死亡、714名が負傷した。 この事故の3年前に同トンネル内で発生したでは、トンネル外まで列車を引き出して消火し物損のみに留めた。 この事例に基づき規則改正を図れば避けられた惨事だが、逆に日本海乗務員を運転規則違反で処分し、規則が改正されなかったことで惨事化した。 国鉄ではこの事故を教訓に実験を重ねた結果、トンネル内火災では脱出してから消火する方が安全であると確かめられたことから、運行規則が改められるとともに、や長大トンネルを走る車両の難燃化・不燃化の基準が改訂され、車両の出火対策が進められた。 詳細は「」を参照 地下鉄日比谷線広尾駅車両火災事故 [ ] 1972年(昭和47年) (現在の)日比谷線下りB871S電車(8両・全電動車)が、600 m手前で過負荷継電器により編成内の電源が落ち、復旧後もノッチ操作にが応答せず力行不可能となった。 電車は広尾駅で運転を中止し乗客を降車させた。 直後の点検では車両に異常は認められなかった。 しかし、乗客から「4両目の床下からボーンという音がした」「床下から少し煙が出ていた」という話を聞いた乗務員と駅係員は、上記の北陸トンネル火災の直後ということもあり、大事をとって編成を広尾駅の側線に待避させ、パンタグラフを降下させた上で再度点検することにした。 点検中、5号車(運転中の前から4両目)の断流器から発煙しているのを発見。 で消火を試みたが、作業中に爆発音とともに煙の勢いが強くなり、待避した。 その後煙がおさまらないため消防に通報。 3539号車の断流器焼損、高圧ツナギ箱などの床下機器を一部焼損した。 死傷者はない。 東海道新幹線大阪運転所脱線事故 [ ] (昭和48年) からの回送715A電車(16両編成)が本線との合流地点で停止信号を冒進、直前で運転士が気付いたが間に合わず分岐機を破損して本線上で停止。 さらに指令員の不手際から、十分な状況確認をせずに車両を後退させたため、分岐器上で脱線した。 事故による死傷者は発生しなかったが復旧に約18時間を要し、ダイヤが正常に戻るまで2日かかるなど大幅に混乱した。 ATC管理下の信号冒進・脱線事故で絶対停止03信号の添線軌道回路48 mを突破した停止システムの根幹に関わる事故であったことから大問題となったが、現車を使用した再現実験の結果、現場手前のカーブ地点でのレール潤滑油(レールと車輪の磨耗や、騒音を低減する)の過剰塗布が原因で、ATC自動ブレーキが十分に作用せず滑走したことが主要因と判断され03信号の添線軌道回路を50 mに延長した。 また事故報告書では、運転士はATCの停止信号現示を見落としたため、脱線直前まで気付かなかったとされたが、この点については信号現示に異常があったとする運転士・組合側から反発を受けることとなった。 この後 には、には構内で異常信号によるダイヤ混乱が発生。 また想定を超える設備劣化による車両故障やレール欠損事故などが立て続けに発生したことから、1974年から翌年にかけて「新幹線安全総点検」として半日運休を、さらにからまで「若返り工事」を行うこととなった。 しかし、これらの措置は同時期に行われた国鉄料金体系の大幅な値上げと相まって、それまで新幹線が絶対的優位を保っていた併走ルートのが再起するきっかけとなった。 詳細は「」を参照 特急「さざなみ」衝突脱線事故 [ ] 1973年(昭和48年) 17時21分ごろ - 間で、東京発館山行き下り特急「6号」(9両編成)が、踏切で立ち往生していた約20tの船舶用エンジンを積載したトレーラーと衝突し、35人が重軽傷を負った。 この事故で先頭車両だったクハ183-17は、トレーラーの荷台に乗り上げ約100 mを脱線したまま走行し大破。 前面部分が「く」の字型に折れ曲がり、修復困難となったことから1974年2月12日付で廃車となった。 なお、同車は1972年6月に落成後約1年半での廃車。 代替として1975年にクハ183-39が製造された。 当該列車は、第56号転轍機のトングレール先端から34 m進入した上り本線と上下待避線のわたり線で進行右側に脱線、196 m進行して停止した。 先頭車両(クハ111-55)が全軸脱線、車体が進行右側に横転転覆、2 - 6両目車両も全軸脱線転覆し、3名が死亡、149名以上(156名とも)が重軽傷を負った。 また722K列車の運転士は意識朦朧となった状態で運転したとみられる。 この事故を契機に関西本線における113系の運用はJR発足まで長らく快速運用に限定されることになる。 さらに関西本線ではトランスポンダ式Pとの比較で廃止されたの長期試験も実施された。 事故列車の先頭車は廃車となった。 なお、JR西日本発足後に登場し主に快速で使用される221系では同線の普通列車の運用も存在している。 負傷者78名。 原因は運転士が出発以降速度制限を無視して加速を続けたこと。 曲線過速度脱線事故のひとつであり、後の2005年4月25日に起きると似通った発生条件である。 東北本線列車脱線衝突事故 [ ] 1974年(昭和49年) - 間で発行き貨物列車が脱線、上り方面の線路を支障した。 そこへ、上野行きの急行「まつしま5号」「ばんだい4号」(電車13両編成)が突入。 上野方の「ばんだい4号」は左側前面の一部を破損して脱線転覆。 52名が衝撃で跳ね飛ばされたり、ガラス片で手足を負傷するなどした。 西鉄大牟田線列車衝突脱線事故 [ ] (昭和50年) 19時6分 - 間の井尻3号踏切において、発行き特急1803列車(2041編成)が踏切内に進入してきた自動車(中型ライトバン)と衝突、先頭車両が横転、後続車両も脱線した。 重傷者2名(うち自動車運転者1名)、軽傷者41名(うち公衆2名)を出したが、横転事故にもかかわらず死亡者は出なかった。 乗務員3名が重軽傷を負った。 事故機は4両とも現場で解体され廃車となった。 このうち、EF63については24・25号機が代替製造された。 事故がおきたのは、午前6時16分ごろ。 信越線上り線第一トンネル内で過速度により車体傾斜してトンネル内壁と接触しながら降坂し、出口付近で脱線した後、転覆・転落した。 この区間は、最大66. ところが何らかの原因でこのOSRが正常に作動しなかったものと見られ(機関士が誤って旅客列車側にスイッチを入れていたとの説もある)、制限速度を大幅に超過して坂を下り、トンネル内壁に傷をつけるなど暴走した後に脱線・転覆した。 この事故により、EF63全車両に設置されているOSRをより強固なものに変更する検討がなされたが、過密ダイヤをさばくには横川駅付近の緩勾配区間を速やかに通過することが求められた(この付近ではOSRを切って運転される)ため、強制的な速度制限機能の付加は見送られる。 ただし、この区間において類似の事故はこれ以降1997年の廃止まで一切起きなかった。 山陽線須磨駅ホーム転落事故 [ ] 1975年(昭和50年) 15時50分ごろ にて(または 6両編成)の通過待避をしていた各駅停車の車掌、大山健一(入局2年目)が、状態でホームから転落した老人を見つけ、救助しようと線路に飛び降りたが、間に合わず新快速にはねられ、老人も死亡した。 現在、事故現場近くにはが建てられている。 高松琴平電鉄志度線列車正面衝突事故 [ ] (昭和51年) 午前10時20分ごろ の付近にある向良横踏切(松島町)で上下2両のが約30 kmで正面衝突した。 当日はでに向かう家族連れら約450名が乗車しており、重傷者17名を含む負傷者224名を出す事故となった。 なお、事故車両(上下いずれも)は運転台が潰れたため廃車になったが、同社にとって有責事故による廃車は唯一である。 事故は志度線が全線であり、上下電車が今橋駅でするだったにもかかわらず、下り電車のが失念し、先に出発しただった。 また当時志度線には設置されていなかった。 東海道線蒸気機関車接触事故 [ ] 1976年(昭和51年) この日、東海道本線の - 間で同区間の開業100周年を記念し、が牽引するイベント列車の「京阪100年号」が1往復運行されていたが、その上り列車に付近の線路内でをしていた小学校5年生の男児が接触し、死亡した。 事故そのものは、国鉄側に責任のないだったが、国鉄における蒸気機関車のに対する考え方を大きく変えた事故となった。 脱線車両数としては国鉄最大の事故となった。 居眠り運転により大沼駅からの緩勾配と平坦部で加速し下り急勾配中の300Rカーブに進入したとされている。 上越線急行「佐渡」脱線事故 [ ] (昭和52年)3月8日 - 間で直径3. 7 m・重さ30 t の巨大な岩が崖から落下。 この現場に上野発新潟行下り急行列車「佐渡3号」(165系電車12両編成)が激突。 前から4両が脱線し、837人の乗客中1人が死亡111人が負傷。 被災車両のうち6 m下のに転落した先頭クモハ165-3、横転した2・3両目のモハ164-3・クハ165-58が復旧困難なため同年5月18日付で廃車。 本事故後に「防災制度」が整備された。 信越本線急行「信州」脱線事故 [ ] 1977年(昭和52年)7月25日14時15分ごろ (現・) - 間の蟹町踏切付近で異常高温によりレールがゆがむ障害が発生した。 この結果、後側7両が脱線し乗客7人が負傷した。 当該車両のうちモハ168-5が大破したため1978年3月10日付で廃車された。 また廃車となったモハ168-5のユニット相手方であったクモハ169-5は、被害が大きくなかったことと製造から10年以内 で資産の耐用年数等に関する省令(昭和40年3月31日大蔵省令第15号)に定められた鉄道用車両における電車の償却年数である13年に満たない状態であったことから、復旧後は休車となった。 しかし、1982年に償却年数である13年を経過していたクモハ169-9が大規模な車両故障を起こし修復せず廃車となった際にユニット相手方を失ったモハ168-9とユニットを組み直し運用に復帰した。 阪急電鉄十三駅扉挟み死亡事故 [ ] (昭和53年)1月20日 午前8時47分ごろ の4号線ホーム(上りホーム)で、行き普通列車が発車する際、扉に挟まっている乗客を見落とし、テレビカメラで監視していた保安スタッフが出発合図を送ったことにより列車を発車させた。 その後、異変に気づいて21 m走行したところで停止したものの、乗客はホーム上を5 m引きずられた後、軌道内に転落して列車にひかれ死亡した。 (平成7年)のと類似の事故である。 営団地下鉄東西線列車横転事故 [ ] 1978年(昭和53年) 午後9時34分ごろ (現)の行き快速列車(5018F、10両編成)が、 - 間(当時、は未開業)の上でによる突風を受けて後部2両が西船橋方面行きの線路上に横転、1両が脱線。 負傷者23人。 現場から800 mの地点に風速計が設置されていたが、大手町運輸司令所では警報ブザーは鳴動しなかった。 当時、天候は、午後9時の気圧配置では、北緯40度東経137度付近に低気圧988 mbar があり、の1本が東京上空を通過、非常に不安定な気象状況だった。 竜巻突風による被害は、午後9時20分ごろ、川崎市戸手で突風により民家8戸が全壊、60戸の屋根が飛ぶなど、被害区域は幅300 - 500 mの帯状の範囲、から東方までの30 kmの範囲、時間は25 - 30分間に集中した。 ステンレスカー(なお、当時一部のマスコミでアルミ車と報道されたが、転覆した車両にはコルゲートがあったので誤報)の車重が問題となったが、その後の調査により、走行中の列車を竜巻が直撃する確率は50 - 100年に1回と計算され、不可抗力という結論になった。 脱線および転覆した2両は、橋梁上で復旧が困難という理由から現地解体され、その後同じ番号の車両が2両代替として新製された。 なお、この際に一部ので「地下鉄電車が突風で転覆」とが表示され、この当時、の地下鉄漫才が大流行していたこともあり、地下鉄の路線に地上区間や鉄橋があることを知らない人に混乱を招いたということもあった。 高松琴平電鉄長尾線列車障害事故 [ ] 1978年(昭和53年) 14時35分ごろ 高松琴平電鉄 - 間(当時は未開業。 現在の同駅付近)の鹿伏中央踏切で、警報を無視して踏切内に侵入した大型ダンプカーに発行き電車(2両編成)が時速約70 kmで衝突した。 電車の先頭車がダンプカーを20 mほど引きずる形となったのち線路脇の水田に転落・大破し、電車運転士とダンプカー運転者が死亡、乗客と車掌計3名が重軽傷を負った。 事故原因は過積載と速度超過状態で走行していたダンプカーがブレーキが間に合わず踏切内に進入したためとされた。 なお、損傷の激しかった先頭車(750形770)は現場で解体処分された。 常磐線列車衝突脱線転覆事故 [ ] (昭和54年)15時5分ごろ - 間の鹿島街道踏切(警報機、遮断機付)で平(現:)発行き上り普通482M列車(12両編成)が警報を無視して進入したダンプカーと衝突。 ダンプカーは大破。 電車は1両目が前部を大破して約70 m暴走した後脱線、進行方向左側約2m下に転覆。 2両目以下も約200 m暴走し、2両目が脱線した。 ダンプカーの運転手1人が死亡、乗客57人と電車運転士1人が負傷した。 この事故で架線を切断したため、 - 間で翌日の10時30分ごろまで運休した。 事故車の先頭車(クハ401-52)と2両目(モハ402-1)が廃車となった。 事故後に鹿島街道踏切は閉鎖され、既に完成していた常磐線を越える立体交差に移行させると同時に現場近くには線路の下を潜る通路が設置された。 信越本線篠ノ井駅列車衝突脱線事故 [ ] 1979年(昭和54年)4時31分ごろ において、中の7両と長野行き(電車8両編成)が衝突。 電車の先頭車1両(クハ165-190)と貨車2両が脱線・転覆し、乗客の中学生と教師ら364人が負傷した。 当時、駅構内で貨車の入換中だったが、貨車をからする際に、突放された貨車に飛び乗ってをかける構内掛(「掛」は「係」の国鉄での表記)が待機しているか否かを確認しないまま、操車掛がに突放指示を出したため、機関車より突放された7両の貨車はブレーキをかけられることなくそのまま構内を800 m逸走し、を割り出して篠ノ井線のへ進入し、駅に進入中の修学旅行電車が衝突したものである。 その後、長野県警によって操車掛3人が逮捕された。 先頭車のクハ165-190は同年11月27日付で廃車。 江ノ島鎌倉観光(江ノ電)藤沢駅構内暴走脱線事故 [ ] 1979年(昭和54年)15時46分ごろ 【列車衝突事故】 江ノ島鎌倉観光線(現・)に進入中の電車 301F 2両が所定停止位置を超え、車止めの砂利を乗り越え車止め標識と線路終端施設に衝突し乗客乗員負傷者70数名をだした。 死者は0名。 この事故で先頭車デハ301の前部台車が脱線した。 後に機械的な不具合は発見されず、運転士の操作ミスとして逮捕起訴され執行猶予付き禁固刑が確定。 しかしATSによる細かい速度規制などにより、監督官庁の査察が入るような事故は皆無である。 京王帝都電鉄京王線列車障害事故 [ ] 1979年(昭和54年) 【踏切衝突事故】 京王帝都電鉄(現・)東側の飛田給11号踏切にて、トラック(2名乗車)の荷台から転落した重機(ショベルカー)に発行き上り急行列車(7両編成 )が衝突、衝突の際に左カーブの付近だったため重機は前に押し出されて下り線の線路を支障したところに、新宿発行き下り特急0015列車(5000系7両編成 )が衝突、前2両が重機に乗り上げて脱線転覆、落下した重機を載せたトラックに衝突した。 重機を退かそうとして重機に乗り込んだトラックの運転手が重機ごと電車に轢かれて死亡し、列車の乗員・乗客ら52名が負傷した。 トラック運転手が荷物重量制限の確認注意を見落とした可能性に加え、荷台の重機を等で固定していなかったため、傾斜のある踏切を渡った際の振動で重機が踏切線路上に落下したとみられる。 事故当日は武蔵野台駅近くで駅舎改築に伴う道路舗装工事をしていたが、降雨のために中止となり、重機を撤収移送している途中での事故だった。 武蔵野台駅の東側(同駅 - の間)はカーブになっており、最初に衝突した急行列車が衝突の際に左カーブの位置だったため、重機は前に押し出されて下り線の線路を支障し、さらには見通しの悪いカーブから下りの特急列車が間に合わずに衝突され、重機に乗り上げて脱線転覆したとみられる。 尚、事故から38年が経過した2017年12月現在もカーブおよび、事故現場の踏切は移設せずに残っている。 当該トラックに乗車しており生存していた運転手1名は 積載不備 、、でにされた。 この踏切にはが未設置であったことから、本件以後京王での踏切安全対策強化が進められた。 事故車両は構内のに運ばれ、損傷が酷かった京王八王子方の先頭車1両(クハ5871号車)が1979年付で廃車となり、翌1月末に同検車区にて解体された。 このクハ5871号車は(昭和43年)に通勤電車として初の冷房を採用された試作であった。 武蔵野貨物線生田トンネル貨物列車追突脱線事故 [ ] 1979年(昭和54年)【列車衝突事故】 の - 間の生田トンネル内を走行中の貨物列車が、機関士の居眠りにより停車に至り、停車位置が上り勾配であったために後退し、停止信号で停車中であった後続の発行きの石油貨物列車に衝突し貨車4両が脱線転覆、11両が脱線した。 先行列車機関士の運転中の居眠りによる過失と断定され、先行の貨物列車の機関士および貨物列車の車掌が書類送検された。 1980年代 [ ] 京阪電気鉄道置石脱線事故 [ ] (55年)20時59分【列車脱線事故】 のの - 間の磯島茶屋町付近で、に在学で同市内の中学生5人組のグループが悪戯で線路脇のケーブルトラフ(コンクリート製U字形溝)の蓋を線路上に置いた ため、同地を通過した発行きの電車(7両編成・乗客約400名)の先頭3両が脱線、先頭車輛が民家に突っ込み、2両目は横転。 幸い死者は出なかったが、負傷者104名の大事故になった。 この事故により先頭車両5554号車は廃車となり、同じ番号の車両がその年12月に代替として新製された。 中学生グループおよび保護者に対して京阪電鉄は損害賠償を求め、5人のうち4人は1人あたり840万円の示談金を支払うことで示談が成立した。 しかし、残りの1人とは示談が成立せず、1982年2月に京阪側が損害賠償を求める裁判を起こす。 このは「グループには入っていたが、実行行為に関与していなかった」と主張し、がその主張を認めた。 しかし、には謀議に入った者も賠償責任が発生するとする旨の判決 を出し、大阪高裁に差し戻した。 同年の差し戻し審では、他の元中学生4名と同じく840万円を支払うとの和解が成立した。 京阪は約4200万円の賠償金を受け取ることになったが、これは実際の損害額の約10分の1である。 残る9割の損害はで対処した。 この経験から、対策として京阪を筆頭に、鉄道事業者各社においては、沿線から線路に侵入させないようなフェンスや有刺鉄線をきわめて積極的に設置した。 さらに、先頭車両へのの設置と、先頭台車への補助的な排障器具の設置を進めた。 長崎本線特急「かもめ・みどり」脱線事故 [ ] (昭和56年)13時53分ごろ【列車脱線事故】 - 間を走行中の発・行き特急2021M列車「・11号」(12両編成)が、柳掘橋梁付近の左側半径800 mのカーブで左側レールが2箇所、横に波打っているところを運転士が発見し非常ブレーキを執って停車したが後ろ寄りの6両(「かもめ」後ろ2両と「みどり」全編成)が脱線した。 負傷者17名。 レールが波打っていた原因は枕木とレールの締結部分が緩み、暑さでレールが伸びていたことであるが、この頃暑さにより同様の事例が多発していたことから、が国鉄総裁(いずれも当時)に注意を行い全国で緊急に線路状況点検が行われた。 脱線した車両のうち特に損傷の激しかった「みどり」編成後部に組成されていたモハ485-117・モハ484-221・クロ481-53の3両が廃車となった。 同系列が国鉄時代に事故廃車された唯一の事例である。 負傷者14名。 事故を起こした機関士は当該仕業前の仮眠時間に飲酒しており、それによる居眠り運転をしたことが原因だった。 この事故は、当時を中心に展開されていた、国鉄職員のモラル欠如への批判キャンペーンをさらに強めることとなり、国鉄となどでは、本社職員幹部を更迭するなどし、破綻以来の労使癒着関係を解消させることにもつながった。 またこのころ相次いだ「たるみ事故」に「職場規律を正します」との中吊りが車内に掲示され、一部組合も協力して職場規律の修復が行われた。 機関車と事故列車の先頭車()が廃車となった。 石北本線特急「オホーツク」脱線事故 [ ] 1982年(昭和57年)6月11日12時ごろ【列車脱線事故、線路障害】 - 相ノ内(現・)間で枕木交換作業中の現場に定刻より遅れてきた発行き31D特急「1号」が進入、脱線した結果27人が重軽傷を負った。 原因は現場に「オホーツク1号」が遅れていることが伝わっていなかったことと、下請け業者が丁寧さを欠いた手抜き工事をしており本来1本ずつでしか交換してはいけない枕木を一度に6本抜いていたことによる。 この事故により当該車両のの6両が現場で解体され同年7月6日付で廃車となった。 国鉄外房線脱線事故 [ ] 1982年(昭和57年)6月27日 5時18分ごろ【列車衝突事故〈土砂災害によるもの〉】 - 間で発行き上り普通224M列車(6両編成)が土砂崩れに遭遇し、前2両が脱線した。 乗客3名が負傷したが、運転士に怪我はなかった。 脱線したクハ111-1308は1983年12月10日付けで、モハ112-1027は1984年9月17日付けでそれぞれ廃車されたが、モハ112-1027のペアのモハ113-1027は付随車化および運転台設置の上クハ111-1201に改造され復旧した。 東北新幹線小学生死亡事故 [ ] 1983年(昭和58年)8月4日【鉄道人身障害事故】 - 間(当時は未開業)の第一高清水トンネル内で、大宮発盛岡行きの「やまびこ35号」が同トンネルに差しかかった際に、運転士が異音を感知したため線路の異常を考えて列車無線で運輸指令に報告した。 保線区員が現場付近を調べたところ、トンネル坑口から約60 m地点で小学生女児の遺体を発見した。 この女児は夏休み中で母親と兄の家族3人で母方の実家に帰省する途中であったが、古川駅で下車の際、母親が先に兄妹を降車させたものの、帰省ラッシュで混雑した車内で自身の降車準備に手間取り、兄が不安を感じて車内に戻ったところでドアが閉まって列車が発車してしまった。 ホームに1人取り残された女児は気が動転して家族を追いかけるように軌道内へ立ち入り、徒歩で北上していたところ後続列車である「やまびこ35号」にはねられたものである。 女児がはねられた第一高清水トンネルは、古川駅から約11Km離れていた。 当時、古川駅では助役1人で監視カメラ2台を使ってホームの安全確認をしていたものの、帰省ラッシュで混雑していた上、上り列車で発生した急病人対応で駅員が出払っていた。 また女児が降りた部分はホーム先頭で監視カメラの死角になっており、安全柵をすり抜ける女児を見逃していた。 東北新幹線開業後、初の旅客死亡事故となった。 外房線細代踏切事故 [ ] (昭和59年) 10時30分ごろ【踏切障害事故】 - 間の細代踏切(遮断機なし)で、列車が接近しているにもかかわらず強行進入したミキサー車の側面に発千葉行き上り普通246M列車(6両編成)が衝突。 列車運転士が死亡、車掌ならびに乗客合わせて50人が重軽傷を負った。 この事故で先頭のクハ111-1307は前面部分が上部から押し潰され大破。 1985年12月26日付で廃車された。 阪急神戸線六甲駅列車衝突事故 [ ] 1984年(昭和59年) 11時30分ごろ【列車衝突事故】 構内で、副本線から本線に出てきた上り列車(3064編成・4両編成)に、同駅本線上を通過していた上り発行の(2050編成・8両編成)が衝突。 特急列車の前部3両と回送列車の4両がし、負傷者72名を出したが、事故による死者は出なかった。 回送列車の が故意に ATS のスイッチを切り、の合図とを無視して発車したことが原因。 また事故発生時、方面へ向かう対向列車()が同駅に向かって走行していたが、衝突した特急列車の運転士(阪急電鉄の運転士)が、負傷しながらも異常を知らせるためにを手に線路上を梅田(大阪)方へ走った事により、二次的事故を免れたとされる。 当該車両のうち、損傷のひどかったがとなった。 事故を起こした山陽電鉄の運転士はでされたほか、同日付遡及でされ、免許も取消された。 同乗していた同社の車掌は直接の責任はないにも関わらず、事故を未然に防げなかったという自責の念に駆られ、事故から11日後の夜に神戸市須磨区内を走行中の自社普通列車に飛び込みした。 大阪陸運局(現在の)が特別保安監査を行ったところ、当時山陽電鉄では、定時よりも最大で数分早く駅を出発する行為が横行していたことが発覚。 安全教育の不徹底が指摘され、同年に山陽電鉄に対して業務改善命令が出された。 この事故を受けて、山陽の鋼製車両については置き換えが決まっていた旧型車両を除く全車両が塗装変更を受けた(当事故で自殺した事故列車の車掌の遺族などに配慮するため)。 なお、山陽電鉄の列車は、の開始から一貫して、六甲駅で乗客を降車させた後に回送列車としてすぐ発車し、西方の(としても使用)で折り返すというダイヤが設定されていたが、当事故より1か月あまり前となる1984年3月25日のダイヤ改正から、休日ダイヤに限って六甲駅で特急を待避してから回送列車を発車させるダイヤとなっていた。 事故を起こした山陽電鉄の運転士は、新休日ダイヤでは初めての乗務で、運行管理者からダイヤ表を渡され運転席に掲げていながらもまったく見ず、特急待避の必要を知らなかったと供述している。 特急やくも列車脱線事故 [ ] 1984年(昭和59年) 10時50分ごろ【列車脱線事故〈踏切障害に伴うもの〉】 - 間の踏切で、特急「1号」が、踏切内で立ち往生していた大型トラックに衝突し1両目が脱線した。 この事故で乗客1名が死亡し、21名が重軽傷を負った。 事故の直接の原因は大型トラックと乗用車が道を譲らず警報機が鳴り出すまで運転者同士が押し問答を続けたため、特急接近に気が付かなかったというものであった。 大型トラックの運転手が逮捕された。 なお、乗用車は事故後現場から逃走しそのまま行方不明。 先頭車両のクハ381-132は車体が橋桁に刺さるようにして大破したが車体をにて修復、翌1985年に復帰している。 最後尾のを除く他の12両の客車もすべて脱線した。 負傷者32名。 駅構内で保線工事が実施されており、「富士」の機関士にも通過番線の変更と分岐器の曲線側を減速通過する旨が通達されていたにもかかわらず、その旨を失念して高速で進入したのが原因だった。 機関士がを行っていたことも発覚し、世間からは2年前の「紀伊」の事故とあわせて、強い非難を浴びた。 詳細は「」を参照 上信電鉄列車正面衝突事故 [ ] 1984年(昭和59年) 7時54分ごろ【列車衝突事故】 付近において、下り列車(2両編成)と上り列車(2両編成)が正面衝突し、上り列車の運転士1名が死亡、乗客132人が負傷した。 原因は下り列車の運転士が、上り列車と交換予定だった同信号所の停止信号をしたため。 事故当時、同線にはは設置されておらず、停止信号を無視しても列車を止めることができなかった。 当時のダイヤでは上下列車の交換地点が列車によってばらつきがあり、そのことが事故の遠因になったのではないかと指摘されたため、事故後列車交換駅の統一や列車の減便を伴う大規模なダイヤ改正が行われた。 またATSについては、事故発生から1年後の12月までに整備を完了している。 直ちに非常ブレーキを使用したが全車両が脱線、気動車の前3両が築堤の約8 m下の水田上に落下、横転、4両目が進行左側に約30度傾斜して停止した。 旅客7名が横転した2両目気動車の下敷きになって死亡、32名(気動車運転士、車掌、従業外の国鉄職員)が負傷した。 事故現場の築堤の盛土は水抜きパイプがなく、両端に草を植えた古い方式の土工法によるものだった。 前日夜から当日朝まで連続雨量95 mmの豪雨が観測されていたが、事故当時は降雨はなかった。 豪雨時の運転規制条件の見直しと、同種の方式の盛土の一斉点検が実施された。 事故車両はすべて廃車となった。 付近の累計雨量は7月10日から11日8時まで約100 mmだったが、その後、降雨は無かった。 現場より約2 km離れた鵜川駅の雨量計によれば、6月30日より降り始めた雨は7月1日までに107 mm、その後7月4日から降り始めた雨は8日まで降り続き、5日間で445 mmにまで達した。 続く2日間降り止んだ後、7月10日から降り始め、7月11日8時までに95 mm、全体で12日間に540 mmの累計雨量だった。 開業以来、最大の連続降雨により盛土内水位が異常に上昇し、安定が損なわれ、的破壊が生じ始めたところに列車が進入し、急激な滑動に至ったものと推定される。 盛土は軟弱地盤(厚さ約2 m)の上に高さ7. 5 mで建設され、盛土右側は斜面に接していた。 盛土材料は粘性土だった。 盛土の崩壊は線路中心から起き、円弧すべり(後述)により約3 mの沈下を生じた。 盛土のり尻付近ではあぜ道が盛土とともに横移動、田面が隆起、基底破壊が引き起こされていた。 崩壊の原因は、長期にわたる降雨による台地からの浸透水と台地上の表流水が徐々に盛土本体および支持地盤に浸透、盛土および地盤の隙間水圧が上昇、また盛土重量が増大したためと思われる。 降雨後約6時間を経て崩壊したのは、盛土材料が粘性土であり、台地も粘性地盤であるために、降雨の影響が及ぶのにタイムラグが生じたためであると判断されている。 土木工学上、円弧すべりは、盛土が締め固め不足である、また排水工事が不十分である時など、土中の水により新しい盛土が滑る、一般的な現象である。 すなわち盛土内で飽和状態にある水により滑り台のように盛土が滑る。 1938年の事故は線路改良後短期間で起きたが、1985年の当該事故は、建設後長期間が経過し安定したかに思われる地盤においても、長期にわたる降雨とその他予想し得ない条件が重なれば円弧すべりが発生することを示したものである。 従来の要領で定められていた連続降雨および降雨量では危険性を適切に評価できない長期にわたる降雨に対する災害対策と運転規制については、日本鉄道施設協会内に、学識経験者を交えた「降雨時の災害防止に関する研究委員会」が設置され、審議、抜本的な見直しが行われた。 その後、同様な崩壊が発生すると考えられる軟弱地盤上の粘性土高築堤その他を、長雨重点警備箇所として指定、これら対象区間には、従来の運転規制基準に加え、ひと雨の降り止み、降り始めを定義する降雨中断時間を48時間とする「累積雨量」による運転規制を定め、この規制ルールにも対応し得る演算機能を有する雨量警報装置(レインピュータ)の配備を行った。 長雨重点警備箇所のうち、防護工の設置による対策が講じられ、土中水位の断続観測によりその効果が確認され長雨による後(おく)れ破壊が起こるおそれがないと判定されたものについては逐次、指定の解除が行われた。 東北新幹線保線作業員死傷事故 [ ] 1985年(昭和60年) 23時36分ごろ【鉄道人身障害事故】 - 間で、終電後の保線作業の準備中、定刻より遅れて運転していた上野発盛岡行き最終列車「79号」に作業員2人が接触して即死、6人が風圧ではね飛ばされ重軽傷を負った。 連絡不備により作業員らは列車が遅れていることを知らされていなかった。 東急東横線横浜駅脱線事故 [ ] (昭和61年)【列車脱線事故】 横浜駅構内(当時地上)において、発行き急行電車(8両編成)の最後尾が脱線。 負傷者はいなかった。 9 - 1. 1)に管理、設置基準を半径450R以下の曲線へ引き上げる、という基準を独自で制定。 のちのにおいて東急と同じ輪重管理と新たにガードレール設置判別式を制定、全事業者に採用されたが、運輸省(当時)はこの時点では他事業者に対する注意喚起を行わなかった。 を参照。 当日の(現在の)は大雪で、車輪との間に雪が挟まり、摩擦制動力が著しく低下したのが原因とされた(先頭の2両編成は永久直列制御で、のが高かった)。 事故車両のうち、損傷の激しい8両(急行の前6両と準急の後2両)が事故廃車された。 残った6両は改番の上1本にまとめられて復旧。 事故当時、同社の・を走行するとには(同社の呼称では圧着ブレーキ)が装備されていたが、当時新宿線専用だった2000系にはこのブレーキが装備されていなかった。 この事故をきっかけに、降雪地帯を走らない電車も含め同社のすべての電車に耐雪(圧着)ブレーキが取り付けられた。 転落した客車は真下にあった食品加工場(加工工場)と民家を直撃し、工場の従業員5名と列車の車掌1名が死亡、車内販売員3名と工場の従業員3名が重軽傷を負った。 転落した客車「みやび」は大破し、7両すべて廃車となった。 事故後、機関士の上司は自殺した。 詳細は「」を参照 名鉄犬山線平田橋駅踏切衝突事故 [ ] (昭和62年) 10時33分ごろ() 平田橋駅(に0. 3 km南側に移設しに改称)のすぐ南側にある右岸堤防上の踏切(遮断機・警報機付)で、立ち往生したトレーラーに発行急行列車(4両編成)が衝突した。 トレーラーは約20m引きずられて河原に縦向きに転落、電車の前頭部は「く」の字型に大破した。 この事故で乗客・乗務員・トレーラー運転手187人 が負傷した。 トレーラーは25 t積みのところ、40 tの鋼材を載せてをしており、運転手がとでされた。 なお、現場直前が見通しの良い直線区間であり、踏切の異常を感知したことによりが動作していたにもかかわらず、列車のブレーキ操作が遅れたことも問題視された。 この事故の復旧中に、トレーラーを吊るクレーン車が横倒しになったことにより作業が遅れたが、約11時間40分後の同日22時10分ごろに復旧した。 また大破したク6035は翌1988年3月に車体を新造して復旧した。 現場の踏切は上小田井駅開設および乗り入れに伴う改良工事で1989年8月に廃止され、現在は線路下をくぐるアンダーパスになっている。 近鉄東大阪線生駒トンネル火災事故 [ ] 1987年(昭和62年) 16時20分ごろ() 東大阪線(現在の) - 間にある内で、高圧送電ケーブルから出火、一斉に停電したことにより走行中の発生駒行列車が生駒駅から約2 kmの地点で停車した。 乗客約70人のうち1人が煙に巻かれ死亡、48人が負傷した。 火災発生から30分も経過してから避難誘導を開始しており、乗務員と指令員の対応が問題視された。 復旧には翌9月22日いっぱいまで要した。 原因は、施工業者が特別高圧線の分岐接続部に必要な部品を取り付けていなかったことであった。 サロンエクスプレスアルカディア火災事故 [ ] サロンエクスプレスアルカディア (昭和63年)() JR東日本のジョイフルトレイン (3両編成)による臨時列車がを走行中、を通過した直後に1号車(キロ59 508)の排気管が過熱し、出火。 - 間に緊急停車した。 乗客・乗務員は全員避難したため、死傷者は出なかったが、1号車が全焼し、廃車となった。 この事故を契機にではを搭載している車両に対してエンジンの取り換えと火災対策工事をまでに状態の良い車両に対して行った。 残る2両はとなっていたが、1992年に団体用車両「Kenji」へ再改造された。 JRに所属するキハ58系においては最後まで稼働可能な車両として在籍していたが、2018年9月をもって運行終了した。 中央線東中野駅列車追突事故 [ ] 1988年(昭和63年) () JR東日本のに停車中の津田沼発中野行き下り普通805C列車(10両編成)に後続の千葉発中野行き下り普通835B列車(10両編成)が追突し、後続列車の運転士と乗客1名が死亡、116名が重軽傷を負い、両端の車両を除く18両が廃車となった。 JR発足後初の死者の出た事故。 詳細は「」を参照 函館本線高速貨物列車過速度転覆事故(姫川事故) [ ] 1988年(昭和63年) 17時5分ごろ () - 間の下り急勾配急カーブで発行き高速コンテナ貨物列車が脱線転覆し列車が分離する事故が発生した。 CTCが現場の在線表示が消えないことから機関車に抑止を掛けて停止させ単機になっていたことに気づく。 寝台特急より高速運行の列車で同区間2度目の曲線過速度転覆事故だが、貨物の事故として軽視され、その次の、3度目に起きた1996年12月のまで過速度ATSの設置は検討されなかった。 飯田線北殿駅列車正面衝突事故 [ ] (平成元年) () のにおいて、停車中の天竜峡発長野行き下り普通537M列車(3両編成)に発行き上り普通248M列車(2両編成)が正面衝突。 下校途中の高校生ら146名が負傷した。 原因は、上り列車運転士がATSロング地上子の警報を受け、確認扱いを行い、出発信号機の進行現示を場内信号機の停止現示から進行現示に変更したものと誤認、速度節制を行わず運転を継続、場内信号機の停止信号をした。 場内信号機のATS直下地上子による警報が作動したが、車両接触限界内に停車できず、下り列車の過走対策によりポイントが下り列車方向を向いていたタイミングだったため正面衝突した。 飯田線ではATS-Sが使用されていたが、このシステムでは、警報が鳴動し運転士が確認扱いを行った後は、停止信号を忘れて、あるいはこの事故のように信号を誤認して運転しても非常ブレーキが作動しなくなる、運転士の注意力に全面的に依存したものであり、この弱点を突かれた事故であった。 上記の東中野追突事故とこの北殿駅正面衝突事故を受けてJR各社はATS-Sの緊急改良を決め、非常停止機能を追加したATS-S N開発をJR東日本と東海が担当してJR全社が採用し、ATS-Sの場内信号機と出発信号機などの絶対信号機の直下地上子をこの非常停止地上子に換装、これをJR北海道はATS-SN、JR東日本はATS-S Nとした。 JR東海はさらに車上時素式速度照査機能を追加してATS-STとし、-STから列車番号通知機能を除き車上装置をMPU制御式としてJR西日本が再設計し ATS-SW 、それをJR九州 ATS-SK ・四国 ATS-SS が採用、追ってJR貨物(新ATS-SF)がST速度照査ボード追加で採用した(駅間に設置する閉塞信号機は停止信号警報のみのATS-Sのままである)。 初の鉄道事故。 常磐線磯原 - 大津港間列車脱線事故 [ ] (平成元年) (、線閉違反) - 間下り線において、発行下り貨物3083列車(牽引、21両編成)が夜間保線工事のためレールの取り外された区間に進入、脱線・転覆した。 負傷者はなし。 下り線が不通となったが、当時は複線の片方が無事であれば運行を継続することも多く、この事故の際も翌日夕方まで - 大津港駅間は上り線を使用した単線運転で維持された。 原因は、高萩駅当務駅長であった輸送係と現場責任者であった施設技術主任の二重のミスであった。 当日は3083列車が通過後、線路閉鎖を行い、保線工事を行う計画となっていた。 CTCが整備されていなかった当時、列車の通過を確実に認識できるチェックポイントは信号扱いを行う連動駅(停車場)、すなわちこの区間であれば高萩駅と大津港駅のみであったが、東北本線を補完する貨物の大動脈であり、当時はそれに加えの設定もあった常磐線は深夜帯の列車本数が多く、夜間工事を行う際は行き交う列車の間合いを縫って行うことが求められた。 このため、3083列車が通過後、線路閉鎖手続きを行って夜間工事に取り掛かる際、下り方の連動駅である大津港駅の通過を確認せずとも、3083列車の現場通過を視認した時点で、線路を閉鎖する手続きを取り、工事に着手することとなっていた。 これは「現場通過着手」と呼ばれ、これ自体は当時の規則上正当な取り扱いであった。 ところが、当日は別の工事の関係で、3083列車および先行の貨物3081列車の時刻が変更され、両列車とも通常より遅い時間に運行されていた。 2時44分ごろ、現場において列車通過を視認した現場責任者はこれを3083列車と認識したが、実際には3081列車であった。 貨物列車の車体には列車番号が表示されておらず、現地の端末で列車の正確な位置を確認するようなこともできなかったため、潜在的にミスを誘発する余地はあったが、時刻の変更によりまだ通過するはずのない時間であった点への配慮が欠けていた。 現場責任者は、上り方連動駅である高萩駅に3083列車通過の報告を行い、線路閉鎖を要請した。 この時点で3083列車は高萩駅通過後わずか4分であり、現場まで通常の貨物列車では10分掛かる中、明らかに早すぎる報告であったが、高萩駅当務駅長は復唱の上承認した。 ここに2つ目のミスがあった。 結果として2時53分、工事着手によりレールの撤去された区間に列車が進入、脱線・転覆に至った。 当日の朝日新聞夕刊の「あっ、レールがない!」という見出しが話題を呼んだ。 後に、JR東日本社内誌『JRひがし』2011年1月号にも、「あっ! 線路がない」として取り上げられた。 この事故により、原則として次の連動駅への到着を待って線路閉鎖を行うこと、止むを得ない場合には、1本前の列車が次の連動駅に着いたことを確認すること、誤進入列車に工事を知らせるための措置を十分に行うことが定められた。 1990年 [ ] 仙台電車区特急ゆうづる脱線事故 [ ] (平成2年) 2時ごろ(列車脱線事故) - 間を走行していた発経由行き寝台特急「1号」(12両編成)が、ポイントの結線ミスで下り本線からへの引き込み線に進入。 400 m走行した後、7両が脱線した。 乗員・乗客に負傷者は無かった。 この影響で仙台電車区からの車両の出庫が不能となり、東北本線・常磐線・の列車に運休が出るなどの影響が出た。 当時仙山線の信号機増設工事に伴う信号機と分岐器の機能確認試験が行なわれていた。 この試験は東北本線上り線のポイントを対象としていた試験であったため、この分岐器と信号扱所の制御板との回路を断ち、代わりに模擬装置を接続していた。 上り線のポイントは、下り線のポイントと連動していたため、装置接続後、下り線も引込線側に切り替わった状態となっていた。 「ゆうづる1号」通過前に信号てこを操作し、本線側信号を進行現示にしたが分岐器が切り替わっていなかったのが原因。 「たざわ」の車両は脱線はしなかったものの、観光バスは200 m先の水田に飛ばされ大破した。 この事故でバス運転士との2人が死亡、「たざわ」の乗客8人が負傷した。 原因は観光バスが狭い道幅の踏切を渡ろうとして、踏切を渡りきれずに立ち往生したことによる。 さらに踏切の手前の盛岡寄りの線路がカーブになっていて見通しが悪かったことも事故の遠因になった。 現場の谷地踏切はの工事に合わせて撤去され、谷地跨線橋の建設により立体交差化された。 1991年 [ ] 日高本線勇払沼ノ端通踏切事故 [ ] (平成3年) (列車脱線事故〈踏切障害に伴うもの〉) の - 間の市道勇払沼ノ端通踏切で、立ち往生していた側面に発苫小牧行き普通列車()が衝突。 列車は脱線転覆し、列車の乗員・乗客53名のうち45名が重軽傷を負った。 タンクローリーの運転手は車外にいて無事だった。 事故の原因は、タンクローリーが警報機が鳴り遮断機がおりてきているのを無理に渡ろうとしたことにある。 さらに踏切内でハンドル操作を誤り脱輪して動けなくなり、車から出て手を振って列車に危険を知らせはしたが、列車は非常ブレーキをかけても間に合わず、タンクローリーに衝突したものである。 列車の運転士は一命は取り留めたものの、両脚切断の重傷を負った。 この事故はJR北海道の以後の車両において、乗務員保護策としてを高い位置に設ける高運転台仕様や、を採用するきっかけとなった。 信楽高原鐵道列車正面衝突事故 [ ] 1991年(平成3年) 10時35分ごろ () のの - 間で、発行きの上り普通列車(レールバスSKR200形 4両編成)と、京都発信楽行きのJR直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(キハ58系 3両編成・先頭車両はキハ58-1023)が正面衝突。 上り普通列車の乗務員と添乗していた職員の5名、乗客37名の計42名が死亡、614名が重軽傷を負った。 信楽高原鐵道がの概念を軽視し、の出発信号機が停止信号現示のまま列車を出発させたことと、信楽高原鐵道とJR西日本のそれぞれが信号装置の改造を双方に無認可で行ったことが原因とされた。 なお、信楽線にはが設置されていた。 詳細は「」を参照 福知山線岡踏切事故 [ ] 1991年(平成3年) 8時18分ごろ(列車脱線事故〈踏切障害に伴うもの〉) - 間の岡踏切で、発行きの普通列車(3両編成)が、立ち往生していたを積載した大型と衝突。 先頭車(クモハ112-801)は大破し、盛り土上の線路から転落した。 乗客341人が重軽傷を負った。 原因は大型トレーラーが高さ制限をオーバーした上、踏切上で立ち往生したことによる。 大型トレーラーの運転手は過失往来危険の現行犯で逮捕され、業務上過失傷害、道交法違反などで禁固2年6か月、執行猶予4年の判決が言い渡され、JR西日本も大型トレーラーの運転手を雇用していた福知山市の建設会社に対して約6000万円の損害賠償を請求した。 シンデレラエクスプレス号車輪固着事故 [ ] 1991年(平成3年) 東海道新幹線の東京発新大阪行き最終列車「」となる「ひかり291号」に発生した。 東京駅を発車して300m地点で、運転台に車輪固着を知らせる警報が作動。 15号車新大阪方の台車のうち、東京方の車軸が固着していた。 21時00分に東京を発車して、21時25分、通過までに計8回もの警報が鳴ったにもかかわらず警報のリセットを繰り返し、車輪が固着したまま(東京から約100 km )まで走行した。 8回目の警報が作動した後、運転士はCTCセンターの指令員に停止する旨を伝えると、指令員は運転継続を指示した。 運転士は、に駅員と、近くの上り新幹線の運転士に床下から火花が出ているかどうか確かめてほしいと連絡を入れた。 そして、固着が起きている15号車の床下から火花が出ていることが確認された。 それを受けて、運転士は指令員に列車の停止を伝えると、指令員からは運転継続が指示された。 「ひかり291号」が新大阪行きの最終列車であったことや、()に予備の編成があったためである。 そのため、東京駅基準で41キロメートル地点と78キロメートル地点の計2度、ATCブレーキがかかっている。 その時も、指令員は「運転を継続してください」との連絡を入れていた。 三島駅で停車して全体を検査したところ、前述の15号車の新大阪方から2番目の車輪が長さ30 cm、深さ3 cmにわたって削られており 、2つの車輪をあわせて約6 kgもの金属が消滅していた。 また、車輪が削られたことでフランジ部分が下がり、ATC信号を流すレールボンドが損傷していた。 詳細は「」を参照 宮崎実験線リニアモーターカー火災事故 [ ] 1991年(平成3年)(車両火災) で、実験車両であるMLU002のタイヤが、パンクした状態を再現する装置が誤作動して、その状態で牽引車で引きずって回収しようとしたために車輪とガイドウェイの摩擦で炎上し、MLU002を焼失する事故が発生した。 無人走行のため死傷者こそ出なかったものの、リニアモーターカーの焼失の影響は非常に大きく、長期の試験停止を余儀なくされた。 MLU002の代替に耐火性を強化したMLU002Nを新製した。 1992年 [ ] 寝台特急さくらトレーラー衝突事故 [ ] (平成4年) 0時0分ごろ (鉄道人身障害事故、列車衝突事故) 前面が大きく破損したEF66 55。 鷹取工場公開時に撮影 一ノ谷町ので、が突然Uターンしようとしたため、後続の大型がを切ったところ、牽引車と荷台車の連結部分が折れ曲がる「」が発生し、制御不能に陥り四輪駆動車に衝突後、道路わきの( - 間)に転落。 その直後に走行してきた発・行き下り寝台特急「」(電気機関車と客車12両の計13両編成)が衝突。 「さくら」を牽引していた電気機関車が脱線転覆、客車12両のうち5両が脱線したうえに、トレーラーの荷台に積まれていた鋼材36トンの一部が客車側壁に突き刺さった。 この時トレーラーの運転席が機関車に巻き込まれ炎上した。 さらに隣線を走行してきた下り行き普通電車(7両編成)運転士は、進路を支障している客車を発見して非常ブレーキを執ったが、停止及ばず接触・脱線した。 この事故による負傷者は20名で 、転覆した機関車などの撤去や復旧工事のため山陽本線のダイヤが復旧したのは20時間後であり 、459本が運休し38万人の足に影響した。 また復旧作業に転覆した電気機関車を解体撤去するが使用され、作業のために国道2号も全面通行止めになり、神戸市内の道路も渋滞することになった。 なお、「さくら」の乗客は事故現場で停車した客車で一夜を明かした後、で西明石駅まで向かいそこから臨時で西行した。 なお、事故を引き起こした運転者2名は過失往来危険罪などで逮捕、起訴され、付きのを言い渡された ほか、乗用車の運転者とトレーラーの運送会社はJR各社から事故で喪失した電気機関車や復旧費用など15億円あまりの賠償を請求された。 被災した編成のうち、大破した客車先頭のは廃車され、5月末までに解体された。 また、EF66 55は修理の後に運用に復帰したが、など不具合の頻発により乗務員に忌避され、早期に廃車されている。 これは最悪の場合高速走行中にモーターが線路に脱落し、大惨事に繋がる恐れのある重大インシデントであった。 関東鉄道常総線列車衝突事故 [ ] 1992年(平成4年) () 切断の上除去された事故車両(1992年6月6日撮影) 構内において、入線してきた同駅終着(発)上り列車(2両とキハ800形気動車2両の4両編成、乗客約900名)が減速せずに暴走、車止めを突破し、そのままの2階の壁を突き破り、先頭車両が駅ビル店舗に突入して大破した。 乗客1名が死亡した。 列車の駅進入前に運転士が窓から飛び降りて脱出し(『朝日新聞』1992年6月3日朝刊)、250名以上が重軽傷を負った。 飛び降りた運転士の行動に関しては賛否両論の声があった。 また死亡した乗客の遺族の弔問に訪れたの役員が遺族にを喰らう場面が当時ワイドショーで繰り返し報道された。 運転士は、ブレーキが効かなくなったことを車内放送で伝えて、乗客に後方に移動するように指示したが、朝のラッシュ時の混雑した車内での移動は困難を極め、車内はパニックとなり、網棚に上りだした乗客もいたという。 原因は故障であるとされている。 非常ブレーキも一駅手前ので作動させた後に、発車しようとしたところ、ブレーキが緩まなくなり、運転士がブレーキ締め切りコックを閉めてブレーキを緩め、元に戻さずに発車してしまい、常用・非常の両系統のブレーキが作動しなかった。 後になって判明したが、西取手駅でブレーキ不緩解となり、運転士は異常時の取扱として保安ブレーキ締切コックを閉とした。 その際、車掌が扱った車掌弁を復位していなかったため常用の自動空気ブレーキ系統も、保安ブレーキ系統の圧縮空気も保安ブレーキ締切コックの側穴から外部へ排気されてしまって、ブレーキシリンダーに空気が供給されず、ブレーキ装置が動作しない状態だった。 遠因としては制動装置点検中の運転士に対して乗客が運行再開を強硬に迫ったことも挙げられる。 なお、事故を起こしたキハ300形は、国鉄の中古車両()を購入して使用していたものであるが、経年劣化は酷く、メンテナンスを行っていたものの、この事故車両に関してはブレーキ不緩解が時々あったという。 しかし当時の同線は急激な乗客増加という環境もあり、修理しながらラッシュ時間帯を中心によく使われていた。 さらに関東鉄道常総線は勾配が極めて少ない線区(最大が本事故の発生箇所にあたる西取手 - 取手間で3 だった)であった。 事故以降、同社はをはじめとした新製車両を随時投入し、キハ300形の運用は2011年に終了した。 営団地下鉄日比谷線中目黒駅引上線衝突事故 [ ] 1992年(平成4年) 午前8時50分ごろ(車両衝突) 中目黒駅構内の引き上げ線ポイント上で、出庫中のの後ろから3両目付近の側方に、入庫中のが突っ込む形となった。 引上線での衝突事故のため乗客への被害は無かった。 直接的な原因は東武2000系電車側に乗務の運転士の第2入換信号見落としであるが、従前は本線停止目標位置の第1入換信号で制御していたものを、折り返し時間を短縮して線路容量を増やすために入出双方向同時進入を許容し第2入換信号まで進出するよう改めたが、そこは引上線内であり、ATC非設区間であったことからATC防護を行えなかったため、支障限界まで10 mしかなく、誤って過走した場合に停められる余地がなかった。 したがって本線ATC導入線区ではあるがATC制御下の事故ではなかった。 被災した営団3000系および東武2000系は、車両更新時期にあったため修復されず廃車(書類上は老朽廃車)した。 なお、中目黒駅界隈ではこの事故以前の1965年と1967年にも事故があり、前者はこの後発生した2000年の脱線追突事故とほぼ同じ箇所で発生したものであり、営団3000系電車の台車フレームの破損が原因で脱線した事故、後者はこの事故とほぼ同じ箇所で発生し、この事故と同じく引上線で東武2000系電車が冒進して追突したものであった。 つまり、中目黒駅界隈では同じ箇所で2回ずつ事故が発生した訳である。 回送列車の先頭車両と貨物列車の機関車が脱線した。 回送列車の運転士が負傷。 直接の原因は信号誤認であるが、10両編成の列車が15両の停止目標に停車して折り返したこと(これ自体は、事故の時点では正当な取り扱い)も間接的な原因とされた。 すなわち、は正常に作動したが、地上子までの距離が15両編成の場合と比べて5両分長く、その分加速が付いて、ATSが停められる速度を超えてしまったことである。 この事故を受けて、折り返し列車の両数が多種にわたる場所では、両数に応じて停止目標を細かく設定しなおす、という対策が採られた。 他に、ATS直下地上子を当初位置からさらに16 m手前の位置に移設し、また信号機には番線表示標を設置した。 また当該運転士は当該番線から出発するのは1年半ぶり、通算5回目だった。 成田線大菅踏切事故 [ ] 立体交差化された大菅跨線橋と成田線との交差部分(209系電車車両先端部付近に踏切跡の一部が見える) 1992年(平成4年) () JR東日本の - 間の大菅踏切()で、遮断機が下りていた踏切に進入していた大型側面に発行き下り普通1457M列車(4両編成)が衝突。 先頭車のクハ111-1038は、前面を大破し、列車の運転士が死亡、乗客65名が負傷した。 クハ111-1038は廃車になった。 殉職した運転士は直前に衝突を覚悟し、パンタグラフ降下による電源遮断などの安全措置をとっていた。 事故の原因は、(最大積載重量8,750 kgの4倍もの山砂を積んでいた)のダンプカーが踏切の停止線でブレーキが効かず停止することができなかったことに起因するものである。 法律上はダンプカー側の違反であり、JR東日本は被害者的立場ではあったが、この事故は先のと合わせて、当時のJR東日本の上層部を含む社内にも多大なショックを与えた。 これによりCMやポスターなど、車のドライバーに注意を呼びかける「踏切事故防止キャンペーン」を実施することになる。 衝突時点で運転士は生存していたが、当時の運転室は狭く、大きく潰れ変形した運転室からの救出は困難を極め、結果的に運転士は搬送途中で死亡した。 房総地区ではこの事故以前にも同様の踏切事故で運転士が死亡する事故が発生しているため、本事故以後には113系など既存車両の前面に鋼板を追加貼り付けし強度を上げる工事(通称「」)を実施したほか、以降登場する量産車やなどにおける運転席背面からの脱出口の設置や運転室の拡大、衝撃吸収構造()の採用に踏み切るきっかけとなった。 踏切は事故後、大菅跨線橋の建設による化(平成10年竣工)に伴い閉鎖された。 この当時、本事故に代表されるような大型車の過積載による重大事故が多発していたため、翌1993年(平成5年)にが改正され(平成6年5月施行)、過積載に対する取り締まりと罰則が強化された。 ダンプカーの運転手はでされた。 またこの事故に際し、JR東日本は過積載ダンプカーの運転手らを相手に大破した車両の損害や復旧費用など総額1億3000万円余のを求めるを起こした。 この裁判は、1998年(平成10年)10月26日千葉地裁において判決が下され、運転手、山砂の運搬を依頼した荷主、山砂を積み込んだ砕石会社、砕石会社従業員2名に対して1億円余の賠償を命じている。 営団地下鉄半蔵門線鷺沼車庫脱線事故 [ ] 1992年(平成4年)10月15日および12月28日(車両脱線) (現)内で回送列車が3か月の間に2度脱線する事故が発生。 カーブでのせり上がり脱線とみられ、軽量車体とへの危惧が言われ軌道区と検車区合同の社内調査委員会を設けて検討され、翌年5月輪重バランス測定の必要性を報告、さらに測定機器の導入見積もりを行った。 しかしながら営団上層部は対策を特に取らず、半蔵門線車両のみの輪重調整に留めたことでを防げなかった。 軽量車体では台車対角線の重量の差が比率として大きくなり脱線係数を大きくするので、軽量化に見あった輪重バランス調整が求められるが後の東急を除き鉄道各社ともまったく行っていなかった。 島原鉄道列車正面衝突事故 [ ] 1992年(平成4年) 19時30分ごろ(列車衝突事故) ・ - 間において、行き下り列車(1両編成)と行き上り列車(2000形気動車1両編成)が正面衝突し 、乗客74名が負傷(うち1名は事故後2週間後に死亡)。 事故車両は2両とも廃車となっている。 原因は、上り列車運転士が、別の列車を運転していると思い込み、また車掌も出発信号機の現示を確認しないまま出発合図を出したことにより、所定の交換駅である吾妻駅で下り列車の到着を待たずに出発信号機の停止現示をして発車してしまったため。 事故当時、同線には設置されていなかった。 当時同線は、前年に発生したの噴火災害により一部区間が不通になるなど甚大な被害を受けた最中での事故で、同社の経営に深刻なダメージを与えた。 作家のは、雲仙噴火被害発生以来、島原鉄道への救援カンパ呼び掛けの活動を行っていたが、この事故をきっかけに、輸送機関としての基本である安全を守る姿勢に問題ありとの立場から支援を中止した。 事故後同線はダイヤの改正を実施、交換駅の統一を進めたほか、事故から1年後の12月までにATSの整備を完了している。 1993年 [ ] 日豊本線竜ヶ水駅土石流事故 [ ] (平成5年) 16時53分ごろ(鉄道災害) において、近くでが発生。 竜ヶ水駅舎が埋まり、停車中の列車2本(・)がに飲み込まれて大破した。 崖崩れが起こると判断した乗務員は現場にいた警察官とともに、崖崩れの発生直前に車内の乗客約300人を車外に避難させた。 乗客はほとんどが指示に従い、逃げたため九死に一生を得た。 ただし、指示を無視して車内に留まった乗客3人は土石流に巻き込まれ死亡している。 なお、救助活動に従事した乗務員はこの年のにて表彰された。 乗務員のうち1人は、事故から3週間後に喘息発作を起こしてし、最終的に認定された。 また、乗客や国道の避難者を最後まで誘導し続けた警察官2人は、に警察庁長官賞詞を受賞し9月1日付で1階級特進した。 被災車両のうちキハ40系2両(キハ40 2106・2124)とキハ200形1両(キハ200-1007)が廃車となった。 なお、キハ200-1007は落成から約9か月と非常に短命だった。 事故後、乗務員と警官の活躍が『』や『』などのテレビ番組で紹介された。 現在、竜ヶ水駅構内に災害復旧記念碑が建てられている。 乗客217人が負傷した。 事故の原因は、ブレーキ指令信号を伝える中継継電器内のリレーの一部が通電不良を起こし、ブレーキが作動しなかったものと見られるが、警察の再現実験では再現ができなかった。 大阪市交通局は事故から1か月半は全線で運行を停止し代行バスを走らせたが、その後11月19日に配線の組み換えや二重化を行うなどの対策を施した上で、添乗員を乗せて運行を再開し、に無人での運行を再開した。 13編成の先頭車両は修復不可能なダメージを受けており、他の車両もによる老朽化が進行していたため、に置きかえられそのまま廃車となった。 また、に同様のAGT路線であるで発生した車輪脱落事故の直後は、事故に対する警戒のため、当路線でも一時的に有人手動運行を行っていたが、同年に無人運行を再開した。 なお、後に100A系の置き換え用として登場したでは、本件の事故の当該編成と同じ編成番号が飛ばされている。 1994年 [ ] 特急おおぞら脱線転覆事故 [ ] (平成6年)(列車脱線事故) - 間で発行き「10号」(7両編成)が強風にあおられ、3両が脱線、転覆して28名が負傷した。 この事故で3両が廃車となった。 現場付近の風速計の故障を半年間放置し、状況が把握できない中で徐行運転を実施したからという指摘がある。 この事故をきっかけに防風フェンスを設置したほか、基準を超えるを記録した場合運転を停止する措置を取っている。 三陸鉄道突風転覆事故 [ ] 1994年(平成6年)2月22日 (列車脱線事故) の - 間の矢作川橋梁上で(36-108)と36-200形(36-204)の2両編成の盛発久慈行き普通列車が突風にあおられ転覆、5名が負傷した。 2両とも同年3月23日付で廃車されたが、予備車が不足したためを代替製造することになった。 乗客が車窓を撮影している最中、事故に遭遇した映像はニュース番組でも使われた。 そこに下り線を走ってきた発行き貨物列車(重連牽引)が普通列車の機関車に接触し、貨物列車の機関車2両が大破し、特にのED75 127は右側面車体がえぐれるなどの損傷を受けた。 滝沢駅構内で深夜1時から午前6時まで行われていた保線作業が終了し保線用機械を保守基地に収容する際に、2番線から保守基地線へ向かう乗越ポイントに取り付けた横取り装置の取り外しを忘れたのが原因。 当日2番線を使用する初列車だった522列車が乗り上げ脱線した。 貨物列車の補機であったED75 127は、修理復帰することなく1998年11月19日付で廃車となった。 1995年 [ ] 阪神・淡路大震災による事故 [ ] (平成7年) 5時46分ごろ(鉄道災害) この日発生したにより、を中心に鉄道施設に甚大な被害が発生した。 ・()では営業運行中の列車を含む多数の列車が脱線したほか、・でも営業運行中の列車に被害が生じた。 また列車以外では、やなどで多数の鉄道車両が被災した。 詳細は「」および「」を参照 銚子電鉄線列車正面衝突事故 [ ] 1995年(平成7年) 6時10分ごろ(列車衝突事故) ・ - 間において、下り列車(1両編成)と上り列車(同)が正面衝突し、両列車の運転士2名と、出勤のため下り列車に添乗していた笠上黒生、および上り列車の乗客4名が負傷した。 上り列車の運転士が、自分の運転していた列車を下り列車との交換を行わない始発列車と勘違いし、下り列車の到着を待たずに発車したため。 事故当時、同線にはは設置されていなかった。 同線では、通常は - 笠上黒生間を、笠上黒生 - 間をとして取り扱っているが(銚子 - 仲ノ町は)、事故当時は合理化のため笠上黒生駅のはの取扱により使用停止状態だった。 本来のダイヤでは、下り始発列車が、笠上黒生駅に到着後、当務駅長において上り場内信号機を進行現示に操作し、当該上り列車が到着、その後上下列車の携行するを交換し、当務駅長の出発合図によって上下列車が出発する手順になっていたが、事故発生時は当該上り列車が下り始発列車より先に到着しており、下り列車が入線していなかったことから、上り列車の運転士が自分の運転する列車をタブレット交換を行わない始発列車と誤認したと見られた。 事故後同線では併合閉塞の取り扱いを中止し、全列車が笠上黒生駅でタブレットを交換する運用に改めた。 福知山線藍本駅脱線事故 [ ] 1995年(平成7年) 17時30分ごろ () JR西日本の(JR宝塚線)で、篠山口発大阪行きの快速電車(4両編成)が停車する際に停止位置を行き過ぎを150 m走行した後、車止めの石に乗り上げ前3両が脱線。 乗客10人に怪我はなかった。 運転士は「非常ブレーキをかけながら駅に進入したが止まらなかった」と証言。 後日の報道で事故当日の雪によりブレーキシューに雪が挟まり非常ブレーキが機能しなくなったのが原因だと判明したと報じられた。 この事故がきっかけで福知山線内を走行する電車にも耐雪ブレーキを装備する事となった。 東海道新幹線三島駅乗客転落事故 [ ] 1995年(平成7年) 18時30分ごろ () JR東海ので、東京発名古屋行き「475号」(16両編成)の6号車にしようとしてドアに指を挟まれた乗客の男子高校生が、発車した列車に引きずられた後にホーム下に転落、死亡した。 死亡した高校生は、閉まりかけていたドアに無理矢理手をかけたことで指挟みに至ったものであり、また列車の車掌とホームの係員が指挟みに気付かず、ドアの隙間がわずかだったため、運転席の戸閉ランプが点灯したことで運転士も気が付かず、そのまま列車が発車したことが主な原因である。 東海道新幹線において初めての旅客死亡事故となった。 詳細は「」を参照 1996年 [ ] 日高本線踏切事故 [ ] (平成8年)、9時ごろ(列車火災事故〈踏切障害に伴うもの〉) の - 間の踏切で、雪道をスリップして踏切内に進入したダンプカーに発行き普通列車()が衝突。 列車は脱線しなかったものの先頭部は大破(特に進行方向右側部分はドアまでたわむほどにまで変形)した。 また衝突した際ダンプカーの燃料タンクが列車に巻き込まれ炎上し、列車の運転士と乗客45名とダンプカーの運転手が火傷を負うなどして重軽傷を負った。 罹災したキハ130-5は車体の損傷状況などから修理不能と判断され、同年の2月に廃車となり、翌年にキハ160形気動車が代替製造された。 高山本線特急列車脱線事故 [ ] 1996年(平成8年) 21時20分ごろ(列車脱線事故) JR東海から南3キロ地点、三原トンネル出口にて発行きの特急「15号」(気動車5両編成)が落石に衝突し、飛騨川沿いの竹やぶに転落し、1両目と2両目が脱線。 1両目が大破し、2両目も横転した。 16名負傷。 この事故でキハ85-107が廃車となり、その代替車両としてキハ85-119が1997年(平成9年)に製造された。 函館本線大沼脱線転覆事故 [ ] 1996年(平成8年) 5時49分ごろ(列車脱線事故) JR北海道 - 間下り急勾配の曲線で、発行きのJR貨物運転士が運転していた貨物列車のコンテナ貨車20両がすべて脱線、転覆した。 1997年2月7日、JR北海道副支社長が、に続く大沼付近での3度の過速転覆事故を承け、現場に速度照査装置設置を発表した。 1997年 [ ] 京浜急行電鉄脱線事故 [ ] (平成9年) 14時47分ごろ(列車脱線事故) の - 間の切り通しでがけ崩れが発生し、走行中の発行き上り普通第1449列車(1533編成4両)が突っ込んで脱線した。 この事故で、乗客乗務員19人が重軽傷を負った。 事故発生時、下りの(快特)電車が接近中だったが、運転士が負傷しながらもを発報したため、防護無線を受けた快特は現場の手前で非常停車し二重事故を逃れた。 当事故において、脱線した車両が軌道を大きく逸脱したり横転したりしなかったのは、先頭車が重量の高いだったためであり、この事故は、京浜急行が衝突事故対策や軌道回路を確実に動作させるために、先頭車を電動車にして来た慣例が有効に発揮した実例とされている。 なお、同区間は事故発生当日中に復旧作業を終えて翌日には運転を再開した。 この際の関係者の尽力に感謝する書状が沿線住民から贈られ、京急本社に飾られている。 当該編成は先頭車が代替新造となった。 東海道線片浜列車追突事故 [ ] 1997年(平成9年) 23時18分ごろ () JR東海の東海道本線 - 間で、停車中の発行き下り貨物67列車(牽引)に発行き下り普通839M列車(クハ111-549先頭)が追突し、衝撃でコンテナ車()のコンテナが破損し、コンテナ2個が民家のすぐ近くに転がり落ちた。 43名が負傷。 クハ111-549は廃車になった。 中における速度超過が原因である。 何者かのいたずらと思われる踏切支障通報ボタンの操作で停止現示になったため、先行する67列車が停車していた。 67列車に対する停止信号が、解除操作で進行に変わったことを、839Mの運転士は自列車に対するものと誤認した。 さらに67列車の在線が、自列車の進路である本線でなく並行する側線に停車中のものと勘違いしたことにより、規定に反して次信号到達前に加速をした。 この事故を受けて、運輸省はJR各社に対応を求めた。 JR東日本は無閉塞運転を廃止し、指令の許可を条件とする閉塞指示運転に改めた。 北海道・四国も追随したが、九州など他の3社は運転方法に変化を持たせたのみで 、本事故に類似したにつながった。 を参照。 弘南鉄道弘南線列車正面衝突事故 [ ] 1997年(平成9年) () において、交換列車の待ち合わせ駅を上り列車運転士が勘違いし発車したため、下りの列車との正面衝突事故が起こる。 32名が重軽傷。 事故後、ATSの設置を行い全線で1999年より使用開始した。 中央線大月駅列車衝突事故 [ ] 1997年(平成9年) 20時ごろ () JR東日本の構内で、下り本線を通過中の新宿発松本行き特急「13号」(12両編成)の側面に、待避線から下り本線上に進入してきた入換車両(6両編成)が衝突し、特急列車(8号車は横転)の5 - 9号車と入換車両の前2両が脱線、特急の乗客77名が負傷した。 入換車両の運転士が、構内での入換作業のために自動列車停止装置 ATS の電源を切った後、下り本線の出発信号機の進行現示を入換車両に対する出発信号機現示と誤認し、入換信号機の停止現示を見落として発車したための事故。 ATS電源投入はハンドル連動改造中で、事故車が未改造だったことと、運転士が切替操作を勘違いして断にしたことで誤出発を止められず衝突に至ったと推認されている。 詳細は「」を参照 1998年 [ ] 土佐くろしお鉄道中村線列車衝突事故 [ ] (平成10年) () 9時15分ごろ、 - 間において発行普通列車(1両編成・乗客約40人)が、エンジン故障で立ち往生した。 エンジン故障とは、踏切通過の際に、踏切改良工事のための仮設踏切舗装板が浮き上がり、列車車両床下にある変速機オイル冷却用配管と接触、これを損傷したもの。 故障列車の運転士はまたは赤旗による防護措置を怠っていた。 また、救援列車運転士に渡された運転通告券には故障列車の停止位置(現場のキロ程)が記載されていなかったため、故障列車の位置は不明だった。 相模鉄道相模大塚駅脱線事故 [ ] 1998年(平成10年) (車両脱線) の引き込み線で回送列車(・乗客なし)がポイントを3箇所破壊する脱線事故が発生した。 回送列車のため、けが人はなかった。 一部車両はダメージが大きく、3000系は1編成しかないため翌にそのまま廃車され、3000系は廃形式となった。 この事故では請負会社の工事指揮者が作業現場に遅刻した上 、大崎駅のに列車の運転状況を確認せずにJR信号通信指令室へ作業開始連絡をしたこと、作業前安全打合せ(作業内容・接近列車ダイヤの説明等)をせずに作業員に軌道内への立入りを指示したこと・列車見張員に臨時列車の記載された当日のを渡さずなおかつ見張り位置を指示しなかったこと ・また列車見張員も列車の接近方向とは反対側にいたことが原因とされる。 JR東日本ではこの事故が発生する前から列車運行と軌道内作業の分離を検討していたが、この事故により列車運行中の軌道内作業は原則禁止となった。 参考文献 [ ]• 佐々木冨泰、網谷りょういち『続・事故の鉄道史』、1995年。 以下の事故に詳しい記述がある。 高橋団吉『新幹線をつくった男 島秀雄物語』、2000年。 「私鉄車両めぐり83 近江鉄道下」『』通巻第240号、、1970年8月、 66 - 76頁。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 死傷者数は苫小牧市史を出典としている。 「オコップ川列車事故」として紹介。 同様に狭小であった高尾以西が3,980 mmであり、国鉄時代の電化区間では最も厳しいものとなった。 なお、民営化後に電化されたの走行区間はこれよりさらに厳しく、折畳高3,900 mmの制約を受けている。 の初期車や、など。 ただし371系はにまでは入線しており、285系はより狭小の鳥越トンネル区間を営業列車として走行したことがある。 類似事象にがある。 この跨線橋は現存しており、との並走部分にあるとの立体交差がこれに該当する。 低温発火についてはを参照。 摂氏100ないし150度程度で発火する。 先の1人を加えると60人。 事故以降、113系による普通運用は早朝と深夜の一部のみになったが、1982年8月の台風10号による冠水で101系が不足した際には、昼間の普通列車に使用された。 その後早朝と深夜のみに戻り、民営化後の1988年3月ダイヤ改正以降は平日の早朝に2 - 3本・夕方に2 - 3本・深夜に2本、休日の早朝に2本ほど・夜間に1往復ほど・深夜に1 - 2本ほど113系による普通運用がされていた。 に置き換え後以降も継続され、現在は平日の早朝と朝ラッシュに4本ほど・深夜に1 - 2本、土・休日の早朝に3 - 4本・夜間に3本ほど、深夜に2本ほど運用されている。 1968年9月にで製造。 当時の長野鉄道管理局(現・)では、1975年にを製造から9年で廃車解体としたこと。 また国鉄全体でも事故・故障が多発したが最長でも約10年、最短4年10か月で全車廃車になり、1976年にで問題として取り上げられからも不適切な処理と指摘されたことが関係する。 山陽電鉄の運転士。 乗務員を有さない神戸高速鉄道を経由して他社線に乗り入れるという特有の事情のため、山陽電鉄の車両には、阪急線内であっても阪急電鉄の乗務員ではなく、山陽電鉄の乗務員が乗務していた。 この事故による山陽電鉄側の処分により剥奪扱いとなってはいるものの、法律では動力車操縦者免許の所持は鉄道事業者に所属することが条件であるため、鉄道事業者を退職したまたは解雇された場合、免許は失効となる。 この早発行為は事故になっていなかったがゆえに、この事故発生まで発覚がなく、同年2月には大阪陸運局から同社は安全表彰を受けていた 出典 [ ]• 「計画的妨害 三関駅の脱線」『日本経済新聞』昭和25年7月15日3面• 「三関駅暴走事件」『日本経済新聞』昭和25年7月29日3面• 「懲役十五年の求刑」『日本経済新聞』昭和25年12月13日3面• 2015年3月28日閲覧。 苫小牧民報社 2008年12月1日. 2015年3月28日閲覧。 「列車河中に転落」『日本経済新聞』昭和25年8月3日3面• 「廣島で三重衝突 十三名が死傷」『朝日新聞』昭和25年12月25日• 『毎日新聞』1952年6月18日夕刊3面。 11・12番線は当時まだ無かった。 「飯田線形成への途」『』No. 416、、1983年5月。 福島県教育委員会. 2014年7月14日閲覧。 WizBiz(ウィズビズ). 2014年7月14日閲覧。 「常磐線で急行「北上」転覆 4人死亡29人重軽傷」『読売新聞』1957年5月18日朝刊7面• 「北上転覆事件に求刑」『読売新聞』1958年12月26日朝刊9面• 78、、1958年1月、 73頁。 『新修亀岡市史 資料編 第3巻附録 「グラフかめおか20世紀」』亀岡市史編さん委員会、亀岡市、2000年、92頁。 『名古屋鉄道社史』名古屋鉄道株式会社社史編纂委員会、名古屋鉄道、1961年、397頁。 福原俊一「国鉄急行電車物語」 P. 75 - 76 2006年• 『鉄道ピクトリアル』No. 101、電気車研究会、1959年12月、60頁(Topicphotos)• 『』1959年10月12日付朝刊及び夕刊• 『中部日本新聞』1959年11月8日付朝刊• 『私鉄車両めぐり83 近江鉄道下』、73頁• 「読者短信」『』No. 175、、1965年9月、 76 - 77頁。 『』No. 179、電気車研究会、1966年1月、 94 - 95頁。 『』東京本社 朝刊 1966年3月3日 15面• 毎日新聞社 2017年4月1日. 2018年5月14日閲覧。 『』No. 229、、1969年10月、 89頁。 衆議院. 7 1971年11月5日. 2017年1月11日閲覧。 久保田博『鉄道重大事故の歴史』グランプリ出版、2000年、131頁。 『鉄道No. 1全百科』〈コロタン文庫 57〉、1981年、204頁。 久保田博『鉄道重大事故の歴史』グランプリ出版、2000年、131頁。 『』 1971年9月4日朝刊、同日夕刊、同年9月5日朝刊、同年9月21日朝刊• 『朝日新聞』1972年4月13日夕刊• 山之内秀一郎『なぜ起こる鉄道事故』、朝日文庫(朝日新聞社)、273-236頁、2005年• 『』1979年10月4日付朝刊• 鉄道ファン1980年5月号• 川島令三「全国鉄道事情大研究 京都・滋賀篇」の京阪本線の項。 (朝刊) 朝日新聞社 : p. 1980年2月21日• 朝日新聞(夕刊): p. 1982年2月18日• (朝刊) 朝日新聞社 : p. 1984年12月26日• 最一小判昭和62年1月22日• 朝日新聞(朝刊): p. 1987年11月17日• 2011年10月. 2015年3月31日閲覧。 『』1984年5月22日• 『』(朝刊)1986年3月24日• 鉄道局 2015年7月. 2016年11月14日閲覧。 - 「鉄軌道輸送の安全にかかわる情報(平成26年度)の公表について」の「資料編」に所収。 『』1987年7月8日夕刊 1・11面• 『中日新聞』1987年7月10日朝刊27面• 『中日新聞』1987年7月9日朝刊1・27面• 外山勝彦「私鉄車両めぐり 174 名古屋鉄道」『鉄道ピクトリアル』第624号、電気車研究会、1996年7月、 204頁。 森川優「近年の主な改良工事」『鉄道ピクトリアル』第624号、電気車研究会、1996年7月、 61頁。 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